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シンドラーの人生から考える

ポッドキャストのCOTEN RADIO、最新版がオスカー・シンドラーだったので過去の未視聴回をすっ飛ばして聞き始めました。と同時に、今だと思い、昔から見ようとして見てこなかった映画「シンドラーのリスト」を視聴。案の定考えさせられ過ぎて、これ見た昨日はあまり眠れなかったのですが、これはきちんと向き合いたい。

1.助けた人と迫害した人の違い

まずCOTEN。本当に素晴らしい企画を(いつもですがいつも以上に深い企画に)心より感謝。なぜユダヤ人を迫害した人と助けた人と無視した人がいたのか、人の人生決定に作用するのは何なんだろう、という問いが展開されているので、まずはここから考えてみた。

一つ思ったのは、「自分の心が満たされていないときに、満たしてくれるものが何か」それが大きく作用しているのではないかなということ。私は助けられるなら絶対に助けたい派(ただしそれができるか否かは別問題というのは後述)なのだが、それはなぜ、と問われるならば、人から信頼されること、頼られること、感謝されることで自分の心が満たされるタイプの人間だからだ。映画の描写が忠実なものなのであれば、シンドラーも実はこれが根底にあったのではないか、と思う節がある。人にとにかく頼られ慕われたい(モテたい、も含む)という欲求が強いからこそ、ナチス側の将校や権力者
らと親交を深め、派手に不倫も繰り返し、一方で最後は自分を頼りにしている工場の部下のユダヤ人たちを決して見捨てなかった、という行動がある種の一貫性を持っているように思えた。COTENで登場した杉原千畝やマリア・ニッケルは少し異なるだろうが、それでもやはり彼らの心を満たしてくれるもの(例えば自分の能力を誰かのために役立てたい、とかかもしれない)が、「助ける」方向に作用するものだったからではないか。

逆に、例えば極悪非道のアーモン・ゲートは人を苦しめ自分の権力を誇示することで、心を満たしていたということになろう。アイヒマンに関しては、国家という権威を代表して命令を忠実に実行することだったのか。正直、この人たちの感覚が自分から遠すぎてうまく想像ができないのだが・・・

わからないのは、では心を満たしてくれるものは生まれつき、及び幼少期の環境等で個人ごとに異なり相容れないものなのか、或いは、実は究極的には社会的側面における根本的な欲求はある程度共通していて(例:人から慕われたい・愛されたい等)、しかしそれを実現するために考えたアプローチが人によって異なるだけなのか、ということだ。後者が正しいとすると、例えばアーモン・ゲートは自らの立場上、優先すべきはナチスの上司と部下のみであり、その制約のもと、ユダヤ排斥主義の上司に信頼され、部下から畏怖の念を得ることを求め、そのために人権を奪われたユダヤ人たちを迫害した、という説明になろうか。

ただどうも、後者ではそこまでの残虐性が説明しきれないように思う。やはり、弱いものを攻撃することそのものが心を満たしている(と少なくとも錯覚している)状態になければ、あそこまでの極悪非道な行為には至るまい。となると、心を満たしてくれるものは人により極端に異なり得る、という仮説になるのだが、それは生まれつき多少は決まっているものなのか、また成長過程での影響があるとすると、何歳頃までの経験が影響するのか。そして、他に影響をあたえる要素はあるのか。この辺りは良いヒントがあればまた考えたい。
ただ一つ注意したいのは、心を満たしてくれるものだけではそこから想定されるアクションの善悪を予測できない、ということだと思っている。例えば、誰かを攻撃することで心が満たされるという人が、権力者を攻撃するか、弱者を攻撃するかでも評価は大きく変わり得る。(ダークヒーロー系の物語が何か参考になりそう)

2.助けられる人になるためには

さて、動機は何であれ「助けたい」という気持ちがあった場合に、本当に助けるためには何が必要なのだろうか。それが、映画「シンドラーのリスト」を見て私が一番考えたことである。

前々から自分によく言い聞かせていることだが、「誰かを助けるためには、力がいる」ということだ。(ちなみに公開中の映画「沈黙の艦隊」の予告で大沢たかおが似たようなフレーズを口にするので非常に気になっているのだが、公開している間にこれも見に行きたい) 問題が社会全体に関わる大きなものであるほど、助けたい、という気持ちだけでできることは非常に限定的である。

シンドラーの例で考えてみよう。所謂経営はイザック・シュターンに任せきりでハードスキル系はあまり目立たないが、その突出したコミュニケーション力、交渉力があそこまでの保護を可能にしたのは言うまでもない。
また、ユダヤ人一人一人の顔と名前も記憶していたというから(あのリストの読み上げの場面は史実ではないらしいが)、多くの人との交友関係を支える圧倒的な記憶力があったのも間違いないだろう(記憶力弱者の私としては心から羨ましい・・・というのはさておき)。
また、恐らく恵まれた見た目(モテたらしいので)に支えられた自信、自己肯定感も大きな財産だ。
加えて、ユダヤ人を保護することに伴う自分自身へのリスクを引き受ける度胸、最重要の目的のためには社会規則を破る(多額の賄賂)という割り切り、切羽詰まった環境でリスクの高い行動でもすぐに決める決断力など、精神面での力が常人離れしているのである。

杉原千畝も、シンドラーほどリスクは負わずに助けられたとはいえ、その立場に至るまでにその能力を十分に証明し、独断でユダヤ人へのビザ発行を実施しても首にされなかったほどの信頼を積み上げている。とにかく無茶苦茶力、能力が高かったのだ。

そんな例を眺めてから自分を顧みると、まあ何と力の及ばないことよ。軍部のトップと渡り合う度胸もないし、エリート外交官の世界で一目置かれるのに匹敵する実績もまだ残せていない。当時の社会に自分が生きていたとして、これでは、COTENで紹介されたマリアのように何とか一人だけ助けられるか、もしかしたら、それすらも最後まで実現できずに途中で見つかって拘束されてしまっていたかもしれない・・・

もういい加減、気の遠くなるような話なのだが、とにかく一歩一歩。肉体と精神の鍛練、能力開発を続けていくしかないのだ。そしていつか、誰かを助けるべきタイミングが来たら(いや本当は今でも日本中・世界中に誰かの助けを必要としている人は大勢いるはずなのだが・・・)その瞬間に躊躇いなく助けられる自分でありたい。

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