見出し画像

都会のビルの精一杯の欲望は、美しい。

(休み明けで、エンジンまだかからない方も頑張っていきましょうのエッセイです)

最近、中央区に引っ越した。都心は家賃は高いし、部屋も狭いし、空気も綺麗じゃないし、快適な住環境ではないから、緑のある郊外に移ることも考えた。けれど、いつでも飲みに行けるようにとか、あと数年は仕事中心で生活したいとか、いろんな理由から、結局都心を選んだ。全ての道がビルの陰に入って、直接太陽の光が届かない昼下がり。ビルの窓の光が夜空を支配している平日の帰り道。平日の人の多さはフィクションのように、ほとんど人がいない土日。土(つち)はどこにもないし、空もなくて、ただビルの隙間から、虚が実体化したような風が吹く。

◇◇◇

上京して10年が経つ。わたしの育った田舎は、見上げれば山々が私たちを見守ってくれていて、ふと視線を落とせば草花や虫たちが一緒に遊ぼうよと誘ってくれる、そんなところだった。日本人には、素朴で質素な田舎暮らしや里山への憧憬や美意識があるらしい。私にもそれはある。実際の田舎暮らしは、格別に質素で素朴だったわけではなかったけれど、その憧憬は身体にプログラムされているらしくて、ふとした時に、東京を離れた方が幸せになれるのではないか、という幻想が頭に浮かんでいる瞬間がある。

田舎には、欲や自我を捨てて、世界と自分が一体化できるようなイメージがある。自然は人間には到底想像もつかないような神秘的な秩序を保ちながら全体としての調和を保った生命体のように思える。だからこそ、そんな自然には、畏れの入り混じった美しさを感じる。田舎に暮らすと、その神秘的な生態系の一部としての節度のある「人間」になれるような感じがする。そうすることで、生きることへの罪悪感から解放してくれ、安心と安定を与えてくれる気がするのだ。

一方で、都会は不安定だ。都会は私たちの欲望によって、私たちが理解できる範囲で設計されたものの集積だ。背が高い方が高く売れるから、という局所的な欲望によって設計されたビル。その隣には、それに負けないように、とより高くなったビル。そんな自分のことばかり考えているビルが集まっており、自然のような調和はない。だから、都会に生きる人間は、エコロジーから疎外されているような感覚に陥ったり、地に足がついていない感覚になることもある。

だけど、私には、そんなビルたちを愛おしく思う瞬間もある。

◇◇◇

秋と冬が入り混じった日の午後、引越しをしたし、散歩でもしてみようかと隅田川沿いを歩いていた。永代橋を渡ってふと、月島の方を眺めると、そこには、隅田川のヘリのギリギリに建った高い高いビルたちが、一生懸命に太陽に向かって背を伸ばしている姿があった。

画像1

ああ、美しい、と思って私は思わず立ち止まって写真を撮った。すると、なぜか涙がこみ上げてきた。


自然には存在する調和を持たず、自分勝手に、そして無秩序に乱立していると思っていた高いビルたちも、実は「生命」なのではないか、という気がしてきたのだ。一生懸命に背を伸ばして、ちょっと無理をしながら、なんとかその街に生き延びようと呼吸をするビルに、私はシンパシーさえ感じた。
自然という生命に比べて、ビルは根のない生命のようだ。植物は、命を受け継ぎ、根を張り、呼吸を通して、外と内とで酸素と二酸化炭素を交換しあいながらこの世界と繋がり、循環していく。しかし、ビル群は、この世界に生まれてきたものの、根を張ることも子孫を残すこともないままに壊れていく。だからこそ、この世に生きた痕跡は残したくて、存在感を持たせようとしてもがいているのかもしれない。
私たち人間も、恥知らずな底のない欲望を抱え、不条理にどうにか論理で対抗しようと工夫し、知恵を絞り、無理に無理を重ねて自分たちを大きく見せようと歴史を積み重ねてきた。ビルや都会には、その精一杯の頑張りや不器用さが表現されているように感じるのだ。ビルは、人間そのものかもしれない、とすら思う。だから、まだ、田舎に帰りたいとは思っていない。

#もぐら会 #エッセイ  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?