0309 「何者」かになるには「何か」が必要なのか


最近なんとなくだらけていて、ちょっと久しぶりになりました。

昨日は、『シン・ニホン』アンバサダー講座で一緒していた女子大生の女の子と初めてご対面でした。オンラインではさんざん顔を見て話もしていたのに、最初のあいさつが「はじめまして」で、なんだか変な感じ。笑

二十歳の彼女はお人形さんみたいにかわいいんだけど、きゃぴきゃぴした感じはなく落ち着いている。負けず嫌いで頭が切れて弁が立って、でも「自分は優秀だ」と周りを見下したりしない。良いところも悪いところもちゃんと遠くから自分を見ている、惚れ惚れしちゃうほどかっこいい素敵な女の子だ。

二十歳の目前、尊敬するお母さんに、愛ある喝を受けた話が印象的だった。
「〇〇大の学生を10人並べたら、あなたには何もないんじゃないの」と言われて、「なるほどたしかに!きびしい!」と思った、という。
わたしも耳が痛い。というか胸が痛いと思いながら、うーんと考えてしまった。

わたしにとってその女の子はめちゃくちゃ魅力的で、きっと社会に出てもいろんなところで活躍できる子に間違いないと思うのに、わたしは「そんなことないよ、だってあなたには○○があるじゃん!」とうまく言葉にできないのが悔しかった。(出会って間もないわたしに言われても、、かもだけど笑)
誰しもにわかりやすい専門性とか、資格とか、経験とかそういうものがないと、10人並んだ人間の中で「何か」がないのか?そんなはずないのに、そんな風に感じてしまうのはなぜなんだろう。


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ちょうど先日、同じようなことを考えたのを思い出した。

知り合いが教えてくれたすごくおもしろそうな新しい学校(引用:神山まるごと高専という、徳島の学校です)で教員を募集していて、こんなのあるんだ、素敵だなあと思いながらその募集要項を眺めているときだった。
わたしもそんなワクワクするプロジェクトに関わってみたいなあ、と思って見ていたのだけど、本当に自分が教員になって教壇に立つところはまったくイメージできない。

いろいろな分野の教員を募集していたけど、わたしはそのうち一つでも、この新しい学校の新しい取り組みに参加する学生たちに、胸を張って伝えられることがあるのかしら。

教師になりたいと思っていた時期も長かったし、勉強に限らず教える側に立つことに憧れや願望は今もあるけど、自分がそれほどの「何か」を持った「何者」かである自信がないなと思った(朝井リョウさんの『何者』大好きです)。

でも逆にどこまで突き詰めたらわたしにとって「何者」かになれるのかというと、それもはっきりしない。どこまで行っても同じ気持ちになるような気もするけれど、今のまま年を重ねれば何かを手に入れているわけでもないんだろうな。

ちょっと焦りもするけど、まだまだのびしろだらけなのは良いことだと思って、すこしずつでも自分なりの答えを探していきたいです。



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