花丘ちぐさ『その生きづらさ、発達性トラウマ? ポリヴェーガル理論で考える解放のヒント』抜き書き

 不適切養育は、「虐待」とは少し違います。虐待といえば、身体に傷がつくような暴力が行われる身体的虐待、暴言などを繰り返す心理的虐待、ご飯を食べさせないなどのネグレクトや、あるいは性的な加害行為をする性的虐待などがあります。
 私のところにいらっしゃる、生きづらさを感じているクライアントの多くは、「虐待は受けていない」と言います。身体に傷がつくような殴られ方をしたこともないし、食事はちゃんと出してもらったし、学校や習い事にも通わせてもらったと言うのです。ですから本当なら、幸せな子ども時代だったと言えるはずです。
 ところが大人になった今、自分に自信がなく、つねに焦燥感があって、悲しみやつらさで胸の中がいっぱいになっています。虐待を受けて育ったわけではないはずなのに、なぜ、こんなにつらいのでしょうか。そこで不適切養育という考え方が意味を持ってきます。虐待ではなくても、成長の過程で親から不適切な関わりがあると、心に深い傷を負い、生きづらさを抱えてしまうのです。(P15-16)
 子どもは、「安全である」と感じさせてもらうことが必要です。お母さんや家族との関わりのなかで、「自分は安全なのだ」と感じることができると、子どもの神経系も安定して成長していきます。しかし、そこで条件付きの愛情を示されると、基本的に自分は「安全ではない」と感じてしまいます。何かができないと価値がないということは、基本的には「安全ではない」ということなのです。条件によっては自分の存在価値がなくなってしまうかもしれないからです。衣食住の安定はもちろん大切ですが、それとともに、子どもが「安全である」と感じられるように、親と子どもの間に「協働調整」が行われることが大切です。
 不適切養育の難しいところは、これが赤ちゃんのときや、非常に幼いときに体験したことだと、覚えていないことも多いという点です。赤ちゃんのときの不適切養育によって、自分に自信がなくなり、世界は怖いところだと思うようになり、人と仲良くしようと思ってもひどく気を遣ったり、小さなことで怒り出してしまったりして、うまくいかない人がいたとしましょう。でも赤ちゃんのときに自分の身に何が起きたのかは覚えていませんから、こうした自分の不器用な生き方は自分の性格のせいだと思ってしまうのです。
 子ども時代に経済的に困窮しておらず、ある程度恵まれた生活をしていると、その家の中で不適切養育が行われていたとしても気づきにくい傾向があります。さらに、親に対して不満を持つことに罪悪感を覚え、むしろ自分を責めてしまうこともしばしば起こります。ですから、不適切養育によって発達性トラウマを抱えてしまったとしても、単に自分の性格が悪いのだと思ってしまいますし、体調が悪いのも、「生まれつき身体が弱い」などと、自分の体質のせいだと考えがちです。
 最近では、本人が覚えているか否かにかかわらず、幼いときの記憶が大人になってからも大きな影響を与えるということが、次第に明らかにされてきました。そうしたことについて書かれた本も次第に出回るようになってきました。ヴァン・デア・コーク『身体はトラウマを記録する』、ラヴィーン『トラウマと記憶』、ケイン&テレール『レジリエンスを育む』など、わかりやすく書かれたものがあります。生きづらさを抱えている人がいたら、もしかしたら自分にも何か不適切養育の体験があったのかもしれない、そのために自分の行動がうまく調整できないのかもしれない、と考えてみてほしいと思います。そして、もし気づいたらぜひ行動してみるとよいと思います。(P49-50)
 すでにお気づきかもしれませんが、子どもに思いやりのある態度をとれない親自身が、「発達障害」や発達性トラウマを抱えている可能性があります。親が発達性トラウマを抱えている場合は、その人の親にあたるおじいさん、おばあさんの養育態度が不適切だったことが推定できます。さらには、そのまた親にあたる、ひいおじいさん、ひいおばあさんの養育態度が不適切だった可能性もあり、このように、負の連鎖が世代を超えて続いているのが現状です。私はこれを「人類の負の遺産」と呼んでいます。つまり不適切養育をしてしまう親には、不適切養育をしてしまう親がいて、またそれを遡っていくと、もっと前の世代に問題があったりします。こうした連鎖が起きていったそのさなかには、戦争、災害などさまざまな困難による、避けられない事情も影響しているかもしれません。
(中略)
 不適切養育をするつもりがなくても、こうした生きる上での苦しみのために、その憂さ晴らしをするかのように自分の子どもに八つ当たりしてしまうということもあります。それぞれ、無理からぬ事情があったのだろうと推測されます。ただ、そうはいっても、どこかでそれをストップしないと、トラウマを次世代に垂れ流すことになってしまいます。そうすると、「人類の負の遺産」は、さらに利子がついて、雪だるま式に大きくなっていってしまいます。私のところにセッションを受けに来るクライアントたちも、大変な努力をしながら、この負の遺産を自分の世代でストップしようとしています。(P52-53)
 発達性トラウマを持つ人の神経系は、複雑な反応を見せます。たとえて言えば、傾いた柱を支えるために、別の木を支えにし、その木を支えるためにまた別の木を使う、という具合に、足りないところを補う複雑な構造になっているのです。それは、サグラダファミリアのような見事なまでに複雑なつくりで、生き残りを可能にした芸術作品と言えるのかもしれません。
(中略)
 ある人が、車に乗っていて、後ろから軽く追突され、むち打ちになったとします。もしその人が健全な養育環境で育ち、強靭な神経系を持って生活していたら、一週間ほど安静にしているうちに、むち打ち症は改善していくかもしれません。ところが発達性トラウマを持っている人がこうした事故に遭うと、今までガラス細工のように精密に組み立てられて、なんとか持ちこたえていた神経系のバランスが、一気に崩れてしまうことがあります。そうすると、小さな出来事が引き金となって、頭痛、めまい、耳鳴り、吐き気、微熱、身体の痛み、不安感や悪夢など、さまざまな身体症状を抱えてしまう可能性があります。周りからはささいなきっかけが度を越した状態を招いているようにも見えるため、まるで心気症のように、自分で具合の悪いところを見つけて、苦しみをアピールする自作自演のお芝居を演じているかのように受けとられてしまうこともあるかもしれません。でも本人にとっては、本当に苦しいのです。(P95-98)
 このように神経は、あとからでも変わっていくことがわかりました。ですので不適切養育によって調子を崩してしまっている人も、新しい刺激を加えることで元気を取り戻すことができるのです。しかし、その道のりは簡単ではありません。その理由の一つには不適切養育によって発達性トラウマを抱え、不調に苦しんでいる人は、神経系そのものが「安全である」ことを感じにくい状態になっていること。二つ目には、環境にある安全の「合図」を理解しにくい状態になっていること。三つ目には、身体にトラウマが刻み付けられているために、いくら理性で考えても適切な行動を自然にとることが難しいということが考えられます。(P121)
 心理療法家のなかには、不適切養育をした親と対決することを勧める人もいます。親とは縁を切ってもよいといった考え方をする療法家もいます。いっぽうで、親も治療対象であると考え、親子の関係性のなかで、根気よく治療に取り組んでいる療法家もいます。考え方は人それぞれなので、よいか悪いかという判断はできません。
 もし親が治療に協力してくれるとしたら、それは素晴らしいことです。しかし、いままでも多くのクライアントと接してきましたが、親がセラピーに加わってくれた人はほんの数例です。また、「対決する」こともあまりおすすめしていません。私が今までサポートしてきたクライアントのなかにも、親と話し合いをした人が数多くいます。クライアントとしては、自分の歴史を整理して、気づきも深まり、パワーも戻ってきたので、やはり親に対して心に思っていることをちゃんと伝えようと自分で決めて、話すことも決めて対話する人もいます。しかし、そのなかで、親がちゃんと聞いてくれたという方はほんの数例しかありません。クライアントは、今こそ親にわかってもらおうと意気込んで話すのですが、その多くは期待外れに終わります。逆ギレされて、ますますひどいことを言われることもありますし、「この年になって子どもにこんなことを言われるなんてひどすぎる」と親が泣き崩れ、後味の悪い思いをする人も多くいます。きょうだいや親族まで巻き込んで、さらに傷つくような出来事に見舞われる人もいます。
 親がこうした反応を示すのも、神経系を考えてみれば、ある意味仕方ないのです。親の側の腹側迷走神経系が発達しておらず、ニューロセプションがバランスを崩しているので、何か強く言われると「攻撃された」と思ってしまい、防衛でしか対応できないのです。このような場合、話し合いは意味がないばかりか、心の傷を深めてしまうことにもなりかねません。数回セッションを受けただけで、「親と話し合おう」と早急に行動を起こすよりも、じっくりと自分が元気になっていく道を歩むことをおすすめしています。(P176-178)
 心の傷を癒していく過程では、「許す」ことが大切だと言われます。たしかに問題のある態度で子どもに接してきた親に対し、許すことができれば、それは非常に素晴らしいことだと思います。ただし、幸せになるためには許すことが絶対に必要だという考えに私は反対です。私のクライアントのなかにも、親からひどい扱いを受けている人がいます。そのために、人間関係がうまくいかなかったり、健康を害したり、望んだ仕事につけなかったり、さまざまな障害が生まれています。少し単純な言い方をすれば、親のせいで幸せに生きられたかもしれないチャンスを失ったと言ってもいいのです。そういう人に、「親もつらかったのだから親を許すべきだ」というのは早計だと思います。まず自分の喪失を嘆き、繰り返し繰り返し涙を流し、落胆を言葉にし、それに共感してもらう必要があります。このような丁寧なプロセスを経て、次第に胸がキリキリと痛むような苦しみが、少しずつ和らいでいくのです。
 こうしたプロセスには、私のところでは通常、一年から二年かけています。何十年もの間苦しかったのですから、感じ方、考え方、生きるベクトルが変わってくるまでには、そのくらいの時間がかかります。(P179-180)
 親との距離感についても、心地よいと感じる状態は人さまざまです。なかには親の戸籍から離脱して、親子の縁を切った人もいます。そこまでいかなくても、親とは連絡を取らず、親の葬式にもいかない、と決めている人もいます。今は連絡を絶っていても、何かあったら駆けつけて、一応最期を看取ろうと考えている人もいます。年に一回だけ会うと決めている人もいます。あるいは、とてもエネルギーがいりますが、親とは付き合いを続け、いやな働きかけをされたときはちゃんと伝えて、その都度距離をとりながら、つかず離れず関係を保っている人もいます。心の底から親をきらい、会いたくないと感じている人もいますし、親からきらわれてしまうのもつらいから、それなりにうまく付き合いたいと思っている人もいます。親を好きだと思う気持ちもあるし、きらいだとか、憎いと思う気持ちもあります。そういった思いは、いつも複雑にまじりあっています。そして、気持ちも、時間とともに変化したりします。
 やめようと思うのに、親から声をかけられると、なんとなくうれしくて会いに行ってしまい、そこで親の自己中心的で思いやりがない様子を目の当たりにし、がっかりする人もたくさんいます。砂を噛むような思いをしながらも、やはり親にやさしく接する人もいます。
 親との距離の取り方に正解はありません。いろいろ試してみるとよいと思います。そして、時間とともに癒しが深まり、変化する自分を感じながら、親との付き合い方を変えていくとよいと思います。(P179-182)
 あるクライアントが、こんなことを言ってくれました。「先生のところは、マラソンの給水ポイントなんです。あと少しで自分専用のドリンクがもらえる、と思うんです」と言うので、これはけだし名言だなと思いました。
 セラピストは、一緒にマラソンを走るわけではなく、ひととき寄り添います。ソマティックなアプローチの訓練を受けているセラピストは、その時間を使ってトラウマのエネルギーの解放をします。そして、祈りを込めてクライアントを送り出します。マラソンを走るのは、あくまでもクライアントです。発達性トラウマを持つ人は、往々にして孤独ですし、さまざまな過敏な感覚や心身の不調を抱えています。その苦しい日々をひた走りながら、セラピールームでドリンクを鷲づかみにし、また、走り去っていくのです。(P187-188)
 ポリヴェーガル理論を提唱したポージェス博士は、身体の反応に「よいも悪いもない」と言います。単に身体がいちばん適応的な反応をしたに過ぎないというわけです。ですから、発達性トラウマのために、人とうまくやれないような神経生理学的な状態になっているとしても、それは困難な子ども時代を生き抜くための適応戦略だったわけです。身体は、あなたの生命を維持するという使命を果たすために、やるべき仕事をやっただけです。そこによい悪いはありません。(P196)


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