見出し画像

親の介護と自分のケアの記録 2021年3月 その3

親に由来すると思われる生きづらさを抱え、3月からカウンセリングに通い始めました。これから介護などの必要が生じて親と向き合わなければならなくなる前に自分の問題を棚卸ししたい。そうカウンセラーに伝えた矢先、母が脳梗塞で入院することに。自分を支えるために、その経過を記録していきます。


母入院から1週明けて、3/15(月)。


午後の家事代行仕事の前に、実家へ。父におかずを届ける。肉じゃがと炒り豆腐。

1年前から勢いで始めた家事代行の料理仕事。「得意料理、特にありません。レシピを見ないと何も作れません。でも、レシピどおりに作るのは得意です!」くらいのレベルで始めてしまったら、この1年それはそれは大変だった。何度「つらい、もうやめたい…」と思ったことか。それでもどうにか1年続けた結果、定番っぽいメニューのレパートリーは格段に増え、おかずを2、3品作って届けるなんてことはさほど苦もなくできるようになった。

前回行ったときにまとめたごみを出すつもりだったが、既に父が出していた。結構重かったのに、あれを一人で出せたのかと少し驚く。(父は非力で、重いものを父に任せるという発想は母にも私にもなかった。そのせいか私は、重いものを運ぶことを男性に頼むのが苦手だ。)父に対し、この人は何もできないと思い込みすぎかもしれないと少し反省する。



17(水)。

唐突に介護職員初任者研修の受講を申し込んだ。

母がリハビリでどこまでよくなるかはわからないが、母は70代後半、父は80代前半。私は一人っ子で、介護はわからないことだらけ。今やっている仕事がこの先ずっとあるかも不透明だ。それに、そういえば介護には前々から興味はあった。少しだけ傾聴ボランティアにかかわっていたことがあるし、その流れで高齢者の話を聞いてまとめるという仕事をしていたこともある(長く続けたかったが、その事業自体がビジネス的に成り立たず、私は解雇された)。ならば、介護の資格を取っておいて損はないのでは。そんなことを考え、数日悩んで受講を決めた。相変わらずの行き当たりばったりぶり。家事代行の仕事を減らし、平日1日を受講に充てることに。3月末からの受講で、7月半ばで終了。

この講座を受けることでカウンセリングに行く時間がなくなってしまった。7月まで中断したいとカウンセラーにメール。両親と直面することになったこの状況だからこそカウンセリングは続けたかったが、やむを得ない。何かおすすめの本があれば教えてほしいとメールに添えた。



18(木)。

午後の家事代行仕事の前に、実家へ。昨晩から豚バラブロック肉を煮込み、トンポーローを作って父に持っていく。変に手の込んだ料理を謎のタイミングで作ってしまうところが、私は母によく似ている…。

この日は、地域包括支援センターに母の介護申請を出しに行った。実家から歩いていける距離にある。
前もって電話をしておいたので、保健師さんが待ち構えていた。入院の状況などをヒアリングされ、各種パンフをもらう。介護認定をされるまで1カ月前後かかるそう。

父から、ピアノ買い取りの業者に連絡して、既に引き取りの日取りも決まっていると告げられる。電話の査定では二十数万とのこと。そんなに高値がつくものかしら、引取料として20万取られるんじゃないの?と心配になり、業者に確認の電話。父が言っていたとおりの金額を告げられ、またそこが大手だったので安心してしまい、実際の引き取りの段階で大幅に値段を下げられるなんてこともあるのか、などをうっかり聞きそびれる。ばかだ。できれば引き取りに立ち会いたいところだが、あいにく介護職員初任者研修の講座初日。大丈夫だろうか。



22(月)。

朝、病院のソーシャルワーカーから電話。母は右半身のまひがかなり残っているので、リハビリ専門病院に転院する方向で進めたいとのこと。母からも、もっとリハビリをやりたいと電話で言われていたので、それで進めてほしいと伝える。

午後から実家へ。ぶり大根、揚げ出し豆腐、ほうれん草と油揚げの煮浸しを持参。転院の話を父に伝える。

床に散らばっている本を、とりあえず先日買った紙ケースに詰めてみる。K関連の本ばかり。陰謀論的な内容がちらちら目に入り、気が滅入る。Kの講演のテープやらご祭壇やらがてんこ盛り、そして荒廃した部屋を改めて眺め途方に暮れそうになっていると、父からこの部屋はいいから冷蔵庫の整理を、と言われ、従う。Kに熱心なのは母のほうで、父の信心度合いがどの程度なのかはよくわからない。

気を取り直してキッチンへ。冷蔵庫に詰まった賞味期限切れ品をごみ袋に投げ込んでいく。カビの生えた干しいも、腐ったリンゴなどが奥からどんどん出てきて、大きなごみ袋はたちまち満杯に。野菜室はほとんど空になった。食品から出た液体でどろどろに汚れた野菜室を外し、シンクで洗う。メインの冷蔵室には母の作ったジャムやらソースやらのびんが詰まっている。これも結局は捨てることになりそうだなと思いつつ、野菜室が空いたので、とりあえずそちらに移動。これでようやく入れやすい場所に空きができた。ぱんぱんに詰まって空きがない冷蔵庫、しかも内容物のほとんどが食べられないって、何とも嫌なものだ。母はもう何年も前から本当に片づけられない状態になっていたのかもしれない。

キッチンにあふれている乾物類も、賞味期限切れのものはどんどんごみ袋へ。健康茶やらチアシードやらグルテンフリーの麺類やら。これも大きなごみ袋が満杯になった。

実家にいる間に母と電話で話すと、以前より声が聞き取りやすい。前は何度も聞き返していたが、ほぼ聞き返しなしで会話が成立する。リハビリは楽しいそうだ。リハビリ担当者からも転院をすすめられていたそうで、病院も転院の方向で動いているから安心してと告げる。確定申告ができないことを心配していたので税務署に問い合わせると、還付申告なら5年間は申告可能とのこと。それを伝えるとほっとした様子。長年フリーの校正者として働いてきた母にとって、仕事をやめた今でも確定申告はこの時期の重要行事なのだろう。

実家に3時間もいると何ともいえない疲労がたまってくる。自分がつぶれないためにも実家滞在は一度につき3時間までとしようと心に決める。

父が処分しようとひもでくくっていた本の束から数冊をもらう。横尾忠則対談集、樹木希林のめっちゃ売れた本、今村夏子の『むらさきのスカートの女』など。家にK以外の本も少しあることにほっとする。



25(木)。

朝、病院のソーシャルワーカーから電話。点滴治療が昨日で終わったので、リハビリ専門病院への転院に向けて進めていくとのこと。足のほうは装具をつけてのリハビリによって杖をついて歩ける見込みがあるが、右手は動かないままの可能性が高いと告げられる。

右手が動かない。

料理や庭仕事が好きだった母にとって、これはかなりきついのではないか。父にそれを告げるのも気が重い。私自身も、朝の電話を受けてから、落ち込みがずっと続いている。夜もあまり眠れず、いまこれを書いている。先ほどちょっと泣いて、少し楽になったけれど。

数日前に、カウンセラーから紹介された本が届いた。『不安・イライラがスッと消え去る「安心のタネ」の育て方』(浅井咲子)という本。簡単なワークを習慣化することで自律神経を整えましょう、みたいな本で、理論編的な部分も理解しやすいし、ワークも本当に簡単でよい。ぼーっとする時間を取るとか、ゆっくり動くものを見るとか、緊急性のないことは今日やらないとか。腎臓あたりに手を当てるとか、首や目を温めるとかは、子どもの頃から慣れ親しんできた野口整体で教わってきたこととも重なっていて、すっと入ってくる感じがある。なかなかいい本を教えてもらったかも。

カウンセリングに行けない間は、この本と『セルフケアの道具箱』(伊藤絵美)でセルフケアにいそしもう。それと、こうやって書くことで気持ちを整理していこう。


朝日新聞のウェブ版でこの記事を読み、自分のことのようだと思った。

鳥羽和久『おやときどきこども』の以下の箇所、読み返したくてまるっと抜き書き。父も母も生きづらさを抱えた人だったのだろうと思う。その年までよく頑張って生きてきたよねと本当に思う。けれど、そのことと、いやいや、でも私もそんな二人の間に一人っ子で生まれちゃって、なかなか大変でしたよ?という気持ちとの折り合いがつかない。その辺の折り合いのつけ方を知りたくて、カウンセリングを受けてみたのだった。カウンセリング再開までの間、親子関係の本もいろいろ読んでみたい。

 真正面の席に座ってメロンソーダを飲んでいる彼は「僕も最近は、地政学的な見方によって、自分の親に対する考えが変わってきたところがあります。」そう言って、おもむろに話し始めました。
「先生にお世話になっていた中学のころ、うちの母は、子ども三人をひとりで引き受けていたんです。父は雑誌の編集者でもともと家を空けがちだったんですが、僕が中学に上がってすぐに、東京に単身で住むようになって。下には小五の妹と、小三の弟がいて、三人をすべて私がちゃんと育てなければならないと、ひとりで引き受けすぎてしまったのだと思います。一度引き受けてしまうと、いくら苦しくても手放せなくなる現象、あれ、何か名前をつけたいですよね。母もきっと苦しかったんだろうということが、いまならわかります。」
 彼が家族について、そして母親について、自ら口を開くのは初めてのことでした。
「父は福岡出身で、母は東京との県境に近い川崎の百合丘出身です。うちの家族は、僕がまだ幼いときに父の実家と仕事の都合で福岡に住むようになったんです。でも、結局父は東京に行ってしまって、母は父の実家がある福岡に子ども三人と残される形になりました。近くに父の両親が住んでいましたが、母にとってはむしろそれがストレスになっていたようです。母は、ご近所さんやママ友といった人付き合いをするほうではなく、職場と家を往復するだけの孤立した子育てをしていました。だから、母がなぜ僕らにあんなにきつく当たっていたかということが、いまなら理解できます。母は母なりにちゃんとやろうとしていたんだと思います。むしろ、ちゃんと抱えすぎていたんだと思います。」
 彼の話を聞いていると、当時の礼太郎くんの母親の姿が思い出されます。彼女は確かに、いつも何かに耐えながら歯を食いしばって生きているように見えました。「宿題が少なすぎるのではないか。」「うちの子の宿題の出来が不十分なのに、それに対する指導が甘いのではないか。」そういう内容の電話が、一日に何度も繰り返し教室にかかってくることがありました。そして、たびたび子どもの学習状況を改善するための面談を求めました。彼女は自分が抱える不安について誰かに話す環境になかったし、「気にしすぎだよ」と、ただそれだけのことを言ってあげる人がそばにいなかったのかもしれません。
「とは言っても、いまもあのころを思い出すたびに心が疼きます。僕はいま、胸を押さえながら話しているでしょう。母の話をすると、こうやって少し体が震えるんです。でも、それでも、とりあえず頭ではそういうことか、と理解できるようになってきました。僕は少し前まで、母に傷つけられたということ自体、認められませんでした。僕には、母に対してなんか強烈な罪悪感みたいなものがあって、僕が悪いのに、傷ついてしまう自分はなんてダメな人間なんだと、自分を否定する気持ちでいっぱいでした。大学に入って東京にひとりで住むようになって、やっと僕は母からひどい扱いを受けていたんだな、と認める気持ちになってきました。あの罪悪感もひとつの刷り込みだったんだというのが見えてきて、ああ、かわいそうだったんだな、とあのころの自分を慰めたい気持ちにもなりました。母から離れて、僕はようやく自分のことを被害者だと考えるようになりました。母を憎みたい気持ちにもなりました。でもいまは、母も母親である前にひとりの人間なんだという見方を得ることで、自分が被害者という気持ちからも少しずつ立ち直ってきてるのかなと思っています。」
 礼太郎くんは自分の気持ちを確認するように丁寧に、そして時折顔を歪めながら話します。そういう彼を見ていると、自分とそんなに向き合って彼の心が破綻してしまわないだろうかと心配になります。彼は上体を右に少し傾けたまま座っていて、小刻みに体を震わせています。そして彼が呼吸をするたびに、鼻腔を出入りする空気が擦れる小さな音が聞こえます。
「いや、どうかな……。僕はいま、先生の前だからこんな理路整然としたことを言っているだけかもしれません。家に帰ったら、また母を憎む気持ちがふつふつと沸き起こるかもしれません。逆に母のことを求めてしまうような気持ちが噴出するかもしれません。こうやって話しているうちに、僕はあのころと何も変わっていない気さえしてきます……。いまも、親に対して悪いという気持ちが僕の一番根っこの部分に突き刺さっているのを感じます。親のせいにしているだけで、全部単に自分の問題じゃないかという気もしてきます。自分にとっての真実がいったいどこにあるのか、まったくわかりません……。」
 礼太郎くんは、そうやってとうとう話を振り出しに戻すことを言い出してしまいました。母親が当時、どのような関係性の中で生きていたか、そのことを理解したおかげで、母親が加害者であり、自分が被害者であるという見方からも距離を取ることができるようになってきた。そう話していたのに、彼は話しているうちに、そうやって整然と話すことができる自分に疑問を持ち始めてしまいました。親元を離れてやっと自分が被害者だとわかったというのが話の前提だったはずなのに、被害者なんかじゃなくて自分の問題を親のせいにしているだけじゃないかと、問題を元に戻してしまいました。いまだに癒えない傷を抱えたままに苦しむ彼が目の前にいました。私はもう、彼といっしょに泣いてしまいたい気持ちでした。
 母親から離れ、あのころの自分から離れることで、ようやく自分と母親との関係が見えるようになってきた礼太郎くん。彼が初めにクリアしなければならなかったのは、自分が傷ついているという事実を認めることからでした。彼が自らを責めることなく、そして被害者のストーリーに頼りすぎることもなく、自分自身の生を歩み始めるまでには、もう少し時間がかかりそうです。
 礼太郎くんも薄々気づいているように、彼が言った「地政学的な見方」というのはひとつの戦術に過ぎません。その見方だけで納得しようとしても、どうしてもそこから零れ落ちるものがあり、それだけで母親の言動をすべて理解し、納得し尽くすことはできません。なぜなら、そのストーリーはやはりひとつの意味づけに過ぎず、それ自体ではないからです。その見方はこれまでの経緯それ自体を語っているようでいて、主観的な視点から作り上げられたストーリーに過ぎません。さらに、彼が母親から人格を否定するようなことを言われ続けていた事実があるとはいえ、自らの苦悩の原因をすべて母親のせいにすることも、やはりストーリーによる意味づけであることは否めません。そうやって原因をひとつに還元すること自体、因果論の罠に嵌っていると言わざるを得ないのです。私たちは、ストーリーによってそれ自体に近づくことはできても、それ自体を捉まえることはできません。ストーリーは個人にとっての支えであり、それがいかに救いではあっても、決してほんとうではないのです。その見方を忘れてしまうことは危険です。なぜなら、それは自分の多様な生の可能性をストーリーに乗っ取られ、奪われてしまうことと同義だからです。
 その意味で礼太郎くんは賢明だと思います。彼はひとつのストーリーを手に入れようとしたとたんに、それが手もとからあっけなくこぼれてしまうところまで見つめているからです。自分にとっての真実がどこにあるのかわからない、そう言いながら顔を歪めた彼の正直さを思い出すたびに、私は胸が苦しくなると同時に、どこか厳粛な気持ちになります。
 単一のストーリーに縛られすぎた人は、自分または特定の誰かを責めてしまう傾向にあります。自分を責め続けた人が、その原因は親のほうにあったとして責める矛先を親に転じた瞬間に、親は「毒親」になります。しかしこれは、単一のストーリーの矢印が逆さまになっただけなので、自分への罪悪感が親への怒りに転じたときに、今度はその怒りに自分が支配されるような偏ったものになりがちです。
 自分自身とその周囲に広がる世界を解釈し味わうためには、ストーリーがあったほうがよいのでしょう。そのほうが幸福だったり、自分が安定して生きやすかったりしますから。でも、ストーリーが一面的なものの見方によって成り立っていることを忘れたときに、私たちはストーリーに支配されます。そして、自分自身に、または他者に、攻撃を仕掛けるようになります。
 だから、ストーリーに寄りかかりながらも、そのストーリーが絶対的なものではないこと、そして他のストーリーだってありえたかもしれないこと、私たちはいつもそれを心の底で感じながら、人生を味わっていきたいものです。
 自分を離れて自分を見ることで、やがて一層よく自分に戻ることができます。そうすることで内面を静観し、味わうことができるようになります。
 苦しい感情が湧いたときには、相手を責めるのでも、卑屈になるのでもなく、ただ自分の感情をそのまま味わうことから見えてくるものがあるかもしれません。そして、自分の掌を見つめながら「これでいいのだ」とひとり小さく頷くことができれば、その人はようやく一歩ずつ自分の道を進むことができるでしょう。
 自立とは、社会の中で他の力を借りずに自分の力で生きていくことではなく、むしろ不安定な社会の中で自分の足場を確かめつつ歩む過程の中から自ずと表出するものだと思うのです。「依存先を増やすこと」が自立であるという話もありますが、増やすまでもなく、私という存在に初めから多くの人たちの影が織り込まれています。その影たちを含んだ「私」を味わうことから、自分の道が始まるのだと思います。(P24-31)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?