親の介護と自分のケアの記録 その9

今月上旬に子どもがコロナにかかり、その数日後には夫と私にもうつった。

「ついにかかった…」という残念な気持ちもありつつ、その実とにかく休みたい気持ちが強かったので、とりあえず1週間はいろんなことから免責されることがうれしかった。

特に、実家に行かなくてもいい、ということが。
母が倒れる前は数年行っていなかった実家に、週2ペースで通うことを1年以上続けてきたのだ。自分のストレスの源のような実家に。
よくやってるよ。ほんとおつかれ、自分。と思う。
コロナ隔離中は、母からの電話にも、「用事があったらメールちょうだい」と返してほとんど出なかった。
母の声は聞いていて疲れる。話したくない気持ちが強かった。

39℃台の熱が2日ほど続き、かなり強い倦怠感があった。
熱が引くまでは、とにかく眠りに眠った。

ある程度睡眠欲が満たされたら、本を読み、パソコンで映画を観た。
赤坂真理の『肉体と読書』というエッセイ集と小説『東京プリズン』を読み終えた。

目が覚めてみたら、1990年、26歳になっていた、暦の上では。
内的には、それまでの記憶があまりなく、とくに直前10年間のそれがきれいに抜けていた。それは、体ひとつだけ持たされこの世界にぽんと放り出された感じだ。
(中略)
このことについて話すのはむずかしい。それは事情が複雑だからとかあまりに壮絶だからとかではなく、反対に、どんなにがんばって話してもそんなに悲愴には聞こえないのに自分にとっては生死にかかわる問題だったという、そこのギャップを埋める説明言語を持ってないからだ。たぶん記憶がなかったら、創る必要があって、私は「フィクション」を発明したのじゃないかと思う。それはたぶん自分を、発明しなおさなきゃ生きていけなかったってことだ。
『肉体と読書』P16「男の胎内」
「人に迷惑をかけないようにしましょう」という教育を日本で受けてきたと、私は思っていた。が、嘘だと気づいた。言葉ヅラはそうだが、意味されたことは「常に人の目を気にしなさい」だ。だから日本人は横並びを好むくせに自意識過剰だ。
『肉体と読書』P67「日本の身づくろい(後編)」
彼は精神科医だった。私の関心領域の第一人者である彼に、取材を申し込んだ。
話はいつしか逸れ、家庭内暴力のことになった。家庭内暴力は専門家の介入が絶対必須だという。そうして指示どおりの対応を正確に踏めば、世間で思われるよりずっと沈静が容易な事態なのだと。しかし、指示される人にしてみれば、長年の信念と習慣を改めさせられるはずだ。指示者を信じられると思うポイントは、突き詰めればどこか? 声、ではないか? 声とそれにまつわるものの総体。
話す声は、言葉の一形態だが、言外のものを多く伝える。意味だけでなく、音だけでもない。その人の雰囲気、経験の浅さ深さ、人と相対してきた歴史や深度。言葉と声……この最も体に近く、何より広く人と人とを結びつける媒体に、服装や髪型、皮膚や筋肉や脂肪に至るまで身体イメージに心を砕く多くの人が、無頓着なのは不思議だ。
『肉体と読書』P134-135「形見」 ※安克昌氏についての文章 
『VERY』には周期的に、喪服の特集にしか見えないものがある。それは必ず、子供の学校行事に関連したものだ。
(中略)
それが行われている場所は名門私立幼稚園または小学校だ。上流を志向した親たちは、それぞれに日本の学校教育を憂えて、幼い我が子を名門私立にやったはずだった。その中に「画一的な教育は受けさせたくない」というのがある。
ある集団が自発的な統制を見せるとき、その集団はふつう、もう一段外側の目を意識している。たとえばアメリカの国家行事。
ではあの学校行事の親たちが意識するのは?内に向かって意識し合う目は、集団に必ず閉塞感を生む。どこかにより自由な場所があるというのは幻想だ。自由も不自由も一人一人が態度でつくる。そして子供はそうした非言語の表現にこそ影響を受ける。親たちはそういう子供だった頃を忘れてしまったのだろうか?
『肉体と読書』P152-153「制服Ⅱ」
チチは平たくいうとワーカホリックであったのだ、引くに引けなかった、意地とかそういう問題ではなくあるサイクルにはまると生化学的に止まらないモードに入る病気だったと今は思う、「チチは競馬狂で」とか言えた方がよかった、憎む対象がはっきりしてるぶん千倍くらいよかった、事実、利潤が出たら資本再投入する借金してでも投資して絶対それ以上の見返りを得てやるという考えは、ギャンブルそのものなんだが、この最大の問題はギャンブルには見えずむしろよいことに見えるということだった、依存症は、なんでもそうだけど具体性とか周囲や身体への害悪性が高い方が見つけられやすいし回復しやすい、理念や関係なんか見えにくいものに依存するのはヤバい、深みにはまる、それに、労働することと経済効果を上げることっていうのは、この日本の社会で最も推奨されてきた理念だから。
『肉体と読書』P253-254「個人的なことと普遍的なこと」
事実、ピンナップが、はっきりと戦争の、それも第二次世界大戦の落とし子であることを、そのときには私は知っていた。ピンナップは、後のポルノと違って性器を感じさせないエロスの表現だ。性器を終着点にしないからこそ、無限のファンタジーと欲望を受け止められたという気がする。私は思う、ここにもまた、大きな歴史の相似形の断片がいる。彼の父が、どんな極限状態をくぐってきたのかしらない。そしてどんな極限状態ですらありふれていた時代が、それについて人に語らせなかった。けれど、重みは確かに、何かに、分かち持たれなければならない。極限を臓腑まで染ませて帰ってきた男がもう一度、寡黙に日常を生きようとするとき、ものを言わない彼の魂の断層に、光を放つ女の柔らかな肉体を、挟み込んでいたのではないだろうか。
『肉体と読書』P257「父」

赤坂真理は、数年前に読んだ『愛と暴力の戦後とその後』という新書に度肝を抜かれ、以来ずっと気になっている。少し前に出た『愛と性と存在のはなし』も素晴らしかった。同時代にこの人が生きてくれていてよかった…と思うくらい、心のよりどころになっている。
現在出ている『精神看護』という雑誌の巻頭特集に、赤坂真理さんと倉田めばさんのトークの採録が載っているようで、買わねばと思う。

映画は、『愛しのアイリーン』と『リバーズ・エッジ』をパソコンで観た。漫画原作もの2本。どちらも原作愛にあふれている。
『愛しのアイリーン』は、女衒を殺した流れでの岩男とアイリーンの初セックスシーンが妙に泣けた。
『リバーズ・エッジ』はあまりに原作に沿いすぎていて、なんだかなあという感じ。それぞれの人物にインタビューしているようなシーンを挟み込んでいたりはするけれど。
『愛しのアイリーン』は岩男の父役の品川徹、『リバーズ・エッジ』は田島カンナ役の森川葵が一番ハマっていた。というか、俳優さんは皆ノリノリでやっていて、とてもよかった。

映画を観た流れで、『愛しのアイリーン』や岡崎マンガをあれこれ読み返した。笠原和夫のインタビュー本『昭和の劇』と、山田太一のエッセイ本も少し。20代に戻ったかのような自堕落でしあわせな時間。

少しだけだけど、家の掃除もできた。
下記の引用は、今回処分した『わが家の家事シェア』という暮らしの手帖のムック本みたいなものから。夫が買ってきて、登場する人々も魅力的で期待して読んだのだけど、きれいごとしか書いていないような気がして、けっ!と思った本だった。こういうものに期待しすぎるのがいけないのかもしれないが。その中で、ただひとつ、このエッセイだけが心に残った。

だから相手の性格をよく見て、少しでも興味のあることだけ割り振る。届いた食材の取り込み、段ボールをまとめる、ゴミを出す、運転して店に注文したなにかを取りに行ってもらう、夜道のボディガードなどなど。そしてそれらをやってくれたら全身全霊でほめる。
シェアなんてそのぐらいが限界であろう。
もちろん中には料理に向いている人やそうじが好きな家族を持つ人もいるだろう。その場合はその方面でがんばってもらうといい。でもきっと別のところがごっそり抜けてるはず。それは自分も同じ。
なにに興味がありなにが許せないか。それが全く違う人たちが組み合わさるのが家族だから、千差万別の対応をさぐるしかない。
家事分担表をキリキリ守らせるのは意味がない。
(中略)
いつか必ず家の中のだれかが出て行ったり死んだりして、今の暮らしは終わる。きつい暮らしが何よりも恋しいものになる。
だから別にたいへんでもいいのだ。楽をしたくて生まれてきたわけではないから。
『暮しの手帖 別冊 わが家の家事シェア』P86-87「人と暮らす」吉本ばなな

梅雨あたりから左の手指に水疱が出続け、猛烈なかゆみがあった。家にあった市販薬を塗ってごまかしてきたが、一向によくならず、いよいよ皮膚科を受診しようと思っていた。それが、コロナでゆっくり休んだらケロリと治った。疲れがたまっていたのだな、と実感。

引き続き、去年の日記から引用。

2021年11月5日
私が作った総菜や生協から届いた品を冷蔵庫にしまうと、父がなかなか取り出さない問題が勃発している。
母は冷蔵庫まで行けない状況。
せっかく作った総菜を、父が出さずに母に食べてもらえないというやるせなさ…
卓上冷蔵庫を検討したい。20リットルくらいが適当か?
2021年11月11日
昨日は子どもの保育園の運動会。普通にたのしめた。
親が来ていない子がいて、仕事の事情か何かで来れなかったのかなと思いきや、ご両親ともに遅れて現れ、なんだかほっとする。
親が来ていないときのその子の意気がり、強がりぶりが見ていて興味深かった。
虚栄的態度はああいう心細いときに出るんだよな、と改めて思う。
2021年11月14日
昨日、実家に行った。
少し疲れを感じていた。

父は腰が痛いらしい。
父の様子を見に行くと、少し顔色が悪い。
今、父にまで倒れられたら一体どうなるのだろうと不安が押し寄せた。
シンクにたまった食器を洗う。
排水口を掃除する。
ヘドロのような汚れ。
テレビからは、NHK大河ドラマの音。

掃除機のフィルターにティッシュを付けるとか付けないとか、かなりどうでもいいことで母と口論になり、母が「ああ、めんどくさい人ばっかり!」と嘆きの声をあげてきた。
私の中でもぷつんと切れるものがあり、
「いちばんめんどくさいのはあんただよ」
「親に向かってあんたとは…」
「そもそも親だなんて思ってねえよ」
「怖い…」
「ああ、怖くて結構だよ」
という応酬になった。
母が倒れる前の親子関係に戻ったようだった。

母に対しての負の感情が高まるとき、
私の中に去来するのは「ざまあみろ」という感情だ。
決して口には出さないが。
これは自分でも少し怖いと思う。

介護を受ける側と介護をする側の圧倒的な身体的不均衡。
介護者の精神の健康が損なわれると、事態はたちまちにグロテスクなものとなる。
頼まれていた爪切りはせず、それ以外のやるべきことを済ませ、実家を出た。
自分が感情的になったことを反省する気持ちはあったが、母のほうの大人げなさにも呆れていた。

その後、近所の映画館で『ドライブ・マイ・カー』を観た。
すばらしかった。積もっていた精神的よどみが浄化されるようだった。
2021年11月16日
昨日は子どもが保育園を休んだ。鼻水と咳で。
私も絶不調だった。生理1週間前。
やたらに頭がボーッとして、無気力になる。

ちゃぶ台の上が片づけられず、どんどん気持ちが落ち込んでいく。
夕方にようやくちゃぶ台を片づけたら、少し気持ちが落ち着いた。

子どものケアと実家のもろもろの手伝い、いろいろ中途半端だが続けている仕事。
私は十分によくやっている。
自分をおとしめることなどない、と自分に言い聞かせる。

栗田隆子『ぼそぼそ声のフェミニズム』を図書館で借りて読んでいる。
『病と障害と、傍らにあった本』の中で田代一倫さんという写真家の方がこの本のことを少し取り上げていて、興味を持った。
とてもいい。自分の気持ちを代弁してくれているような。

本を読むこと、映画を観ること、そして、ときどき発信していくこと。
それを続けたい。
2021年11月21日
通院している病院をもっと近所の病院に変えたいという母の希望が強く、今の主治医に紹介状を書いてもらい、昨日その病院に行った。
が、まさかの受診拒否。その病院に入院した人であっても、ある程度落ち着いたら通院は他のクリニックに移ってもらっている。そんな状況なので、縁もゆかりもないあなたを診ることはできない、とかなり強めの拒否姿勢で、すごすごと引き下がるしかなかった。

土曜の朝早く家を出て、実家から車椅子を押してその病院に行き、書類を書いて順番を待ち、やっと順番がきたと思ったら、そんな対応…
貴重な土曜日を車椅子を押して行って戻ってくるだけで5時間近くつぶされた。もちろん薬は処方されず、私はまた自分の時間を削って来週も母の通院につき合わねばならない。
やり場のない怒り。
母は悪くないことを頭ではわかりながら、母に当たった。
みじめな気持ち。

母は、その病院に移れれば、通院を私以外の人に頼めて私を少し楽にさせられると思ってのことだったという。それが裏目に出て、結局私の手間が増えている。それに対して、怒りと、やはり「ざまあみろ」という感情があった。

介護ということのなんという難しさ。
自分を整えていないと、すぐに崩れてしまう。

ふと「母のようになりたくない」と打ち込んで検索してしまう。
そう思えば思うほど、脳は否定形を理解しないので、母親のようになってしまうんだよ、という趣旨の記事が出てくる。
2021年12月4日
昨日は実家に行った。
シーツ・掛け布団カバーの交換→洗濯→洗濯中に手足の爪切り→洗濯物をコインランドリーに→乾燥中に買い物→掛け布団カバーをセット
忙しく立ち働いた。

母と少し口論になる。
母の皮膚の荒れがひどく、それに対して謎の自己診断をする母にいらだった。
そこから私の母批判が始まり、母から「あなたは理解者だと思っていたのに…」みたいなことを言われる。
母の、自分が一番つらい、誰も私の気持ちをわからない、みたいなモードにいらついてしまう。
いや、実際動けないことのつらさはものすごいものだとは思うけれど。

中村吉右衛門が亡くなった話になり、自分より1つ年上だ、すっと死ねてうらやましい、みたいなことを言ってくる。
「死にたかった?」と聞くと、「そのほうがみんな喜んだ。でも生かされて…」みたいなことを言っていた。
Kのことで私が感じてきた苦しみのことを話すと、いつもの「認めない」という態度。
そこで一番腹が立ち、私が苦しいということを他人が否定することはできないと怒った。ずっと謝ってほしいと思ってきた、とも伝えた。

少しして「ごめんね」と言われた。
2021年12月10日
在宅仕事がバタバタで徹夜になり、2日ほど朝のセルフケアができなかった。
が、2日できなかったわりには大きな気持ちの乱れはない。
セルフケアの蓄積があるからかな…と少しうれしく思う。

さっきココアを作っていて手元が狂い、ココアをぶちまけた。
でも、気分は乱れずに淡々と片づけられた。
うれしい。

昨日は、細野晴臣のライブドキュメンタリー映画『SAYONARA AMERICA』を観た。よかった。

ライブの入場待ちをしている人たちに細野晴臣の魅力についてインタビューして回るシーンがある。人が、好きなことやものについて話しているさまを見るのがすごく好きだ。そのとき、その人が自意識から離れていればいるほど、いい。そういう幸福感に満ちていた。

バックバンドの若者(細野からすれば)たちが魅力的。ドラムの伊藤大地、ベースの伊賀航、キーボードの野村卓史。
ライブミュージシャンにとって、この2年の世界の激変はものすごいことだったのだなと思い知った。観られてよかった。










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