ブレイディみかこ『子どもたちの階級闘争』抜き書き① 階級について

 わたしの同僚もやはり下層英語を喋る娘だった。ミドルクラスの家庭の子どもたちが多く通う保育園なので、本人はできるだけゆっくり喋るようにしたり、難しげな単語を使うように努力していたが、医師や弁護士といった高学歴のお母さんたちからは緩やかに、だが完全に無視されていた。夕方、お迎えに来たお母さんたちに「○○ちゃん、今日はランチを全部食べましたよ」みたいなことを話しかけても、お母さんたちは微笑して彼女を一瞥するだけで、もっと育ちのよい英語を喋る保育士に話しかけるのである。
 だが、こうしたお母さんたちはわたしには優しかった。保育園で唯一の外国人保育士だからである。ブライトンでも特に同性愛者の居住者が多く、リベラルでヒップで進歩的と言われている地域の保育園のことである。こんなところに子どもを預けている「意識の高い」お母さんたちには、外国人差別などというポリティカル・コレクトネス(PC)に反することはできない。であれば、どうして自分より恵まれない環境で育った人のことはあからさまに差別できるのだろう。それは「外国人を差別するのはPCに反するが、チャヴは差別しても自国民なのでレイシズムではない」と信じているからだ。それがソーシャル・レイシズムというのの根幹にある。(P8-9)
 労働党政権が幼児教育改革に乗りだしたのは、下層の幼児たちの発育が遅れすぎ、上層では進みすぎていて、就学年齢に達したときには大きな差がついているという発育格差を是正するためのものだった。だから底辺託児所で行われていた教育のほうがハイレベルだったというのは、当時の労働党の理念を象徴していた。国家が早期教育に力を入れすぎるのは危険だという見方もあるし、干渉はデモクラシーに反するという声もある。だが、干渉という名の押し上げが必要な階級があることをわたしは現実的に知っている。モンテッソーリにしてもその押し上げの必要性を知っていたからこそ、底辺層の子どもたちを他の子どもたちと同じ土俵に立たせるために独自の教育法を創出したのである。
 しかし、それが数十年のうちに「こんな教育を貧しい子どもたちも受けられるようになったらと思います」とマハトマ・ガンジーが言うような富裕層教育法になってしまったのだからキャピタリズムというやつは恐ろしい。現代ではグーグルやアマゾンの創始者、英国王室の王子たちもモンテッソーリ法の保育施設の卒園生だという。貧しい子どもを押し上げるための教育法は、恵まれた者たちをさらに先に進ませるためのエリート養成法になってしまった。金の有無とは関係なかったはずのものが、すべて金に収斂してゆく資本主義の法則がここでも幅を利かせている。(P46)
 どうして人間というものは、こんなに残酷でアホくさいことができるのだろう。
 階級を昇って行くことが、上層の人びとの悪癖を模倣することであれば、それは高みではなく、低みに向かって昇って行くことだ。
 エリート・ホワイトの輪に入るために、自ら進んで有色人を排他する有色人。移民の多い国のレイシズムは、巨大な食物連鎖のようだ。フード・チェインではなく、ヘイト・チェイン。そのチェインに子どもたちを組み入れるのは、大人たちだ。(P65-66)
 新天地で英語を学び、職を見つけたい、子どももできるだけいい学校に入れたい、という移民の母親たちには向上心がある。彼女たちにとって、人生はこれから始まるのだ。だから彼女たちは、自分たちの出身国よりも何倍も恵まれた環境に生きているように見えるのに、何の向上心もなく、あたら人生を無駄にしているように見える底辺層の英国人のことがまったく理解できない。そして理解できないものに触れ合う機会がないと、「わからないもの」は「モンスター」になる。(P71-72)
 いろいろな色を取りそろえる意味は、やはりあるのだ。そしてそれは保育士と子どもたちの関係だけではない。「レイシズムはやめましょう」「人類みな兄弟」とプラカードを掲げていくら叫んでもできることはたかが知れている。社会が本当に変わるということは地べたが変わるということだ。地べたを生きるリアルな人々が日常の中で外国人と出会い、恐れ、触れ合い、衝突し、ハグし合って共生することに慣れていくという、その経験こそが社会を前進させる。それは最小の単位、取るに足らないコミュニティの一つから淡々と始める変革だ。この道に近道はない。(P85-86)
 昔、この託児所が賑やかだったころでも、すべての人が仲良く、なんのわだかまりもなく一緒に子どもを預けたり、働いたりしていたわけではない。雑多な人種や宗教や思想や性的指向を持つ人々がそんな夢のように出会ったとたんに一つになって美しいハーモニーを奏でだすなんてことは、ジョン・レノンの歌の中ぐらいでしかありえない。だが、あの頃はもうちょっとみんな大人だった。感情がこんなに剥き出しではなかったのだ。
「こんなにカサカサしているのはどうしてだろうね」
わたしが言うと、イランから戻ってきたばかりの、託児所責任者である友人は言った。
「みんな余裕がないからよ。少ないシェアの取り合いになって、そのシェアがどんどん減っていくから」
「ああ。やっぱ緊縮がいかんのか」
「財政支出額とともに、人の心も縮小しているのかもね」
と友人は笑った。人心のデフレ。そんな言葉が頭に浮かんだ。(P139)

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