ブレイディみかこ『子どもたちの階級闘争』抜き書き③ 英国のことなど

 この冬、日本に滞在したときにジャーナリストの猪熊弘子さんから世田谷区の保育園を5カ所案内していただいた。それでわたしが驚いたのが保育士の配置基準だった。日本の保育園は、0歳児で保育士1対子ども3、1歳児、2歳児で1対6、3歳児で1対20、4歳児、5歳児は1対30と定められているそうだが、これは英国で保育士として働くわたしにはかなり衝撃的な数字だった。英国の配置基準は、0歳児と1歳児で1対3、2歳児で1対4、3歳児と4歳児で1対8である。EYPS(Early Years Professional Status)、またはEYTS(Early Years Teacher's Status)と呼ばれる、保育士より上級の資格を有する大卒スタッフなら3歳児と4歳児で1対13の配置基準も許されている。が、日本では末端の保育士でも20人の3歳児を1人で見ているという。(P109)
 天使ばかりだから保育士の人数が少なくてもやっていけるのか、保育士の数が少ないから子どもたちのほうで天使になるしかないのか。それはどっちが先とも言えない難しい問題である。
 ブライトンで他の同僚や同業者たちにこの話をすると
「1対20って何それ。羊飼いかよって」
「1歳児の1対6もけっこうすごくない? 1歳になったばっかりだとまだよちよち歩きの子もたくさんいるし、何かあったらどうやって6人も連れて逃げるんだろう。日本の子どもって身体的発育がそんなに早いの?」
 とみな一様にびっくりしている。
 日本でお世話になった猪熊さんには『子育てという政治』(2014)という著書があり、それによれば2004ー2013年の10年間に保育施設で143人の子どもが亡くなっているそうだ。そのうち131人は0-2歳だそうで、幼い子どもの命が日本の保育士配置基準によって失われている。ということは日本でも盛んに言われているようだが、この配置基準によって日本の未来から失われているものはそれ以外にもある。
 決断力。クリエイティヴィティ。ディベートする力。わたしが日本にいた20年前から現在まで、日本人に欠けていると一般に言われている事柄はちっとも変わっていないように思えるのだが、こうした能力が欠如していることが本当に民族的特徴になっているとすれば、それは人間の脳が最も成長する年齢における環境や他者とのコミュニケーションのあり方に端を発していないだろうか。少なくとも英国の幼児教育システムは、言われたことを上手にやる天使の大量製造を目的にはしていない。(P113-114)
 息子の学年の今学期の学習テーマは「第二次世界大戦」であり、その一環として子どもたち全員が当時の疎開児童の恰好をして学校に行くという日があった。男子ならシャツに毛糸のベストに半ズボン、頭部はハンチング帽。女子なら髪をおさげにしてワンピースにカーディガンに白いソックス、手にはトランクや当時の疎開児童が持っていたような紙箱を紐で結んで下げられるようにしたものを持って登校するのである。トランクや箱の中には戦時中に疎開していた子どもたちの持ち物(テディベア、着替え、パジャマ、本など)を入れておかねばならなかった。(P121)
 「第二次世界大戦」という学習テーマは、歴史教育の過程の一つのようだが、子どもたちに疎開児童のコスプレをさせ、親たちにまで自分の子どもを疎開させる気分を味わわせるというのは、戦争とは何なのかを草の根レベルで考えさせるのに有効なやり方だと思う。
 英国の小学校はこういうことをよくやる。昨年は、息子たちの学年全員がヴィクトリア朝時代の子どもの労働者(男子は煙突掃除の少年、女子はメイド)の恰好をして登校し、学校の近くのヴィクトリア朝建築の建物の中で当時の貧困そうの子どもの生活を疑似体験するという授業があった。その授業の後で、うちの息子はやたらと「ヒューマン・ライツ」という言葉を口にするようになった。
 日本だったら、リベラルな人々が「そんな戦前や戦中の貧しかった時代を子どもたちに疑似体験させるなんて」と目くじらを立てるのだろうか。だが英国の公立小学校はけっこうこうしたことを普通にやらせている。
 戦争はありました。そして戦争が地べたの人間に及ぼす影響というのはこういうことなんです。貧困はありました。そして貧困が人権に対する罪だといわれるのはこういう状況になるからです。どうも英国の歴史教育とはそういうことを疑似体験で教えるもののようだ。(P122-123)
 底辺託児所のスタッフの構成は、きわめて特殊である。
 金銭を受け取って働いている保育者(責任者または責任者代理)は各セッションに一人ずつしかおらず、それ以外は全員が無給のヴォランティアだ。
 各セッションの人員は、責任者(または責任者代理)+ヴォランティア4人で構成されており、アニー(・レノックス似の責任者)の話によれば、ヴォランティアの人員配置は「有資格で経験豊富な人1人、チャイルドケアの学生1人、放っておいても大丈夫な人1人、サポートが必要な人1人」という構図をもとに決められているという。
 わたしが底辺託児所で働き始めてから一番驚いたのが、この「サポートが必要な人」カテゴリーにあてはまる人々の存在であった。このカテゴリーは、通常の保育園や託児所であれば、こんな人物が子どもと一緒にいるのはいかがなものかと見なされて子どもたちと接する仕事にはつけないタイプの人々である。彼らは一様に、学習障害、精神障害などの明らかなる障害を持っており、そのため文字通り子どもと一緒になって遊び、本気で喧嘩をしてしまう人もいれば、数年前まで精神科に入院していました、という人もいる。底辺託児所が❝無職者および低所得者をサポートする❞慈善センターの一部である以上、託児所にしても「働けない人々」を支援して行く任務を背負っており、「子どもと触れ合うということはセラピーの役割も果たすんです」というアニー(・レノックス似の責任者)の言葉通り、センター全体の基本ポリシーのために使用されているわけである。(P186-187)
 困窮している人には住む家を与えますよ。仕事が見つからない人には半永久的に生活保護を出しますよ。子どもができたら人数分の補助金をあげますよ。の英国は、その福祉システムのもとで死ぬまで働かず、働けずに生かされる一族をクリエイトした。そのような一族に生まれ、人間は一日中テレビの前に座ってチョコレートを食べて生きるのが普通なんだと思って大人になる子どもたちは、そのうちチョコだけでは飽き足らなくなって別のものにも依存するようになる。そして子どもをつくり、その結果として補助金が増えればさしあたって生活の不安はないが、その代わりに希望もないので家の中で暴れ始め、DV問題へと発展するケースもある。一見自由に生きているように見えてもライフスタイルには幅がなかったりする。(P198)
 このタイプの女性が、無職者・低所得者センターにはけっこういる。
 何らかの才能は明らかに持っているが、障害やメンタルヘルス上の問題などによってそれを社会で換金することのできないおばさんたちである。こういう人々はみな独身で、一人暮らしまたは年老いた親と同居しており、身なりなどにも一切かまわないことから年齢よりもずっと老けて見え、「45歳の処女」「口ひげばばあ」等のニックネームがついている。酒とドラッグとセックスに依存し、ぼろぼろ子どもを産んでは政府からの補助金をほしいままにする女性たちとは、また別のタイプのアンダークラスの女性たちである。
 しかし当該センターのようなチャリティ団体はこのような女性たちの能力に支えられている側面があり、ある者は料理に尋常でない手腕を発揮し、またある者は英国人のくせにブリリアントな計算能力を持っていたり、写真を撮らせればプロ顔負けのおばはんもいるし、やたらめったら絵のうまい人などもいる。
 力のある人を世の中は放っておかない。
 というのは、わたしの元上司の口癖だったが、ここではものすごい能力のある人々が埃にまみれて世間の片隅で忘れ去られている。
 とはいえ、「力」というものの中には、きっと実際の作業をする能力というのはあまり含まれておらず、自己プロモやネットワーキングを行う手腕といった「作業換金力」が80パーセントから90パーセントなのだろう。
 だとすれば、前述のおばはんたちにはまったく「力」はない。ただ異様なほど「作業を行う能力」に恵まれているというだけで。
 くだんのルーシーは今年50歳になるそうだ。一度も結婚したことはなく、郊外の小さな家で70代の母親と暮らしている。
 当該センターが設立された15年前からずっと炊事場でヴォランティアをしているそうだが、心ない誰かに「今日の食事はいまいちだった」と言われて激怒し炊事場で食器やガラス窓を破壊して暴れ、センターには顔も出さなかったブランクが2年ほどあるらしい。
「トラックに轢かれて潰れたような顔」「わきがが臭い」「炊事場のマッド・ウーマン」
 と子どもたちにからかわれてもまったく気にもしてない様子の彼女が、自分の料理に関することを言われると、けなされても褒められても過剰なほどに反応して錯乱する。きっとそれは彼女が、一銭の儲けにもならない仕事に全身全霊を傾けてしまうような、サッドでしょぼい人生を生きているからだ。
 それでも彼女のつくったランチがあまりに美味しくて、「More! More!」の歓声とともに人々がフォークでテーブルを叩く音が沸き起こったときなどに、食堂のカウンターの奥で恥ずかしそうにタオルを頭にかぶって食堂を見下ろしているルーシーの顔は、ついこちらまで笑いたくなるほど嬉しそうに見える。
 かくいうわたしなんかもたいそうサッドでしょぼい人間なので、究極の幸福というのは、ひょっとするとこういうことではないのかと思わされてしまうのである。(P233-235)

『子どもたちの階級闘争』、示唆に富む内容で、本が折り目だらけになった。

筆者が「底辺託児所」でボランティアを始めたのは、お子さんが未就学児のとき。子ども同伴でその託児所に通い、自分の子はほかの保育士に見てもらっていたという。

「子どもが小さいうちからがっつりボランティア」というのが衝撃だった。日本ではあまり考えられない状況ではないだろうか。英国においては珍しくもなんともないことなのか、やっぱりちょっと変わったことなのかはよくわからない。が、なんだかうらやましいなと思いつつ、たまたま過去のノートをぱらぱらめくっていたら、下記の抜き書きに目が留まった。

 ケインズは、いわゆる「職」と社会的に必要な労働とを同一視していた。しかし社会的に必要な労働は必ずしも「職」になっていない。家庭内での家事、育児、介護などの膨大なアンペイドワーク(賃金が支払われない労働)、地域のボランティア活動などは、社会的に必要な労働だが、多くの場合「職」ではない。
 また、「職」のすべてが社会的に必要な労働でもない。社会的に必要な労働がすべて現実に誰かに担われているわけでもない。
 つまり、社会的に必要な労働を行う「職」と、同じく不必要な労働を行う「職」、社会的に必要な労働を行うアンペイドワークと、同じく不必要な労働を行うアンペイドワーク、社会的に必要だが誰にも担われていない労働、の五つのカテゴリーがある。
 そしてそのどれも、量は、技術によって一義的に決まるのではなくて、社会的に決まる。たとえば洗濯機が普及しても、社会が要請する衣服の清潔さの度合いが変われば、家事に必要な時間はそれほど減らない。原発が1基爆発すれば、社会的に必要な労働量は向こう10万年にわたって膨大に増える。
 社会的に必要な労働とは何か、それをどう分担すべきかについて、ベーシックインカムを主張しながら問題を提起したのは、70年代英国の労働者階級の女性解放運動だった。彼女たちは、ベーシック・インカムによって人々が社会的に必要なアンペイドワークに従事できるようになり、他方で、社会的に不必要な職を強いられないで済むようになると考えた。
(山森亮「必要な労働できる社会 ベーシック・インカムとケインズの夢」より 毎日新聞・2017年5月22日(月)夕刊)

自分の中で何かがつながったような気がした。英国にはこんな土壌があったのだ。ついでに山森亮のウェブインタビューの記事などを読むと、面白い。若いころは山谷の労働運動の支援にも少しかかわっていたとか。山森亮『ベーシック・インカム入門』なども読んでみたい。あと、ブレイディみかこも共著に入っている『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』も面白そう。

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