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「作品」と「言葉」の距離―LEGOから考えたこと

近頃、LEGOが熱いらしい。
というわけで、知人の誘いで年末にLEGOを触り、先週、仕事の関係でも触る機会がありました。LEGO® Serious Playというワークショップのことで、LEGOブロックを用いて個々が表現したものに、メタファーを用いた語り(解釈といっても良い気がする)を乗せていくいくことで、チームメンバーの内面を共有し合い、組織力の強化を図るプログラムであるらしい。

やってみて思ったことは一つ。
なるほど、これは、箱庭療法のバリエーションだ。
そして同時に、これは「作品を制作し解説(プレゼン)する」という美術作品の制作の現場で当然のように行われているプロセスを、インスタントに再現しているようでもあると感じた。(ちなみに、MITで開発された教育理論を土台にしているそうで、医療の領域に展開されているのかは調査不足。もう展開されてそう。)

LEGO® Serious Playにおいては、まず適当に思いつくままに何かを作らせ、作った「後」にテーマを与えられ(例:これを自分自身の姿だと仮定してください)、そのテーマに基づいて自身の「作品」を言葉で説明することを強要される。

プログラムを体験して、まず私が驚いたのは、「テーマを後づけさせたうえ、短時間で語らせる」という、割ととんでもない強引さ。

もちろん、「作品」にも「言葉」にも、何がしかの真実はあるだろう。
けれども、ワークショップという場の性質上、とっさに言葉を取り繕ったところがあるのも事実で、「作品」と「語り」がうまく接続されていない気持ち悪さのようなものも残った。

この「気持ち悪さ」が示しているのは、作られた「作品」と解釈する「言葉」の間に距離があるということ。作品について言葉で語るためには、どうしても飛躍が必要であるということだ。そして、この作品と言葉が接続されていない「気持ち悪さ」は、美術の世界にも頻繁に起こることなのではないか、という気もする。

その例として私が連想するのは、ミニマリズムの作品群だ。
一般に、「工業製品のような無機質さ」を強調され、「作者の主観を感じさせる要素を排除する」傾向にある作品として語られることの多いミニマリズムの作品は、実際に現物を見ると、案外遊び心にあふれていたりする。

たとえば、ドナルド・ジャッドの作品。
ベネッセハウスミュージアムに長らく展示されていた《無題》(1989)は(全部《無題》なのだが。)、上下綿を銅版で、側面を濃紺のプレキシガラスで覆った10個の直方体を、一定の間隔で縦に並べて壁に設置する作品である。この作品に照明を当てたときに、上下面の銅版に光が反射して壁に赤い光が映り、青い側面とコントラストをなしているさまは美しい。(作家が意図した以上に照明が強すぎた可能性は大いにあるが。)
ちなみに、この作品に類似した形態の作品は多数作られており、上下面に使用される金属は、銅版ではなくステンレスの場合もあり、そうなれば当然、見え方も異なるはずである。

そして、国立国際美術館に所蔵される《無題》(1977)もしかり。
25×50×25㎝という大きさのステンレス製の4つのパーツからなる作品は、真ん中が空いた箱状の構造をしており、各ピースは中央部分で区切られている。けれども、近寄って見てみれば、中央に見えた「区切り」は、本棚の仕切りのように垂直になっておらず、ステンレス板は、中央から左奥の角に向かって斜めに取り付けられている。
この作品を初めて見たとき、最初は本棚のような構造だと思い込んでいた私は、このことに驚き、これが「イリュージョン」でなくて何なのかと不思議に思ったことをよく覚えている。

ミニマリズムの作品の中にあるこの微妙な操作。そこには、きっと作家の創意と主観が入り込んでいる。しかしながら、そうした「創意」について、作家は概して言葉少なだ。

ミニマリズムの作品は、現物を見ることなくその言葉だけを見ていると、なんと殺伐とした作品かという思いに駆られる。「絵画の純粋性」なるものを目指したその極北がこのような作品なのかと、作品の実物を見ていない頃の私は、愕然とするような思いでいた。
けれども、実際に作品を見てみれば、そこには確かに作家の「創意」が存在していた。

理論先行の(ように見える)作品の中にある、語られることのない創意。
作品の中にある、語られなかったもの。
何とか言葉にしてみることも確かに重要だけれど、「語られなかったこと」を「作品というもの」ごと大事にすることをこそ、重んじていきたいなと思う。

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