情念のマネジメント―「あいちトリエンナーレ2019」に思うこと

私が「あいちトリエンナーレ2019」に足を運んだのは、お盆休みのさなかである8月11~12日のことだ。《表現の不自由展・その後》の展示中止に際して、韓国からの参加アーティスト2名が展示中止を表明した直後で、タニア・ブルゲラなどが抗議声明を出した当日に、作品を鑑賞していた形になる。そして、感想に窮したまま、その後の事態の進展を注視しているうちに、文化芸術の世界を超えた問題にまで発展してしまった。

今回の問題は、作品や芸術祭自体への評価や、芸術祭事務局の意思決定や運営体制のありかた、参加アーティストひとりひとりの意思と行動のニュアンスの違い、文化庁の補助金不交付決定をはじめとする政治と芸術の関係など、様々な要素が絡み合い、事態を正確に把握すること自体が困難を極める。これまでも、芸術作品の表現や検閲を巡って「炎上」した事件は数多くあったが、今回ほど、人々の感情のうねりが、社会全体を巻き込むような動きにまで発展したことはなかったように思う。問題の大きさゆえに、芸術に関わりのある人、あまり関わりがなかった人など、多くの人の意見を知る機会が増えているが、そこで見えてきた人々の反応の「温度差」の大きさには驚くばかりだ。その温度差によって、世の中が二分されていくように見えることが、何よりも恐ろしい。

けれど、そんなことのためにトリエンナーレがあったはずはない。だからこそ、今回のトリエンナーレに展示された作品から考えてみたい。特に取り上げたいのは、小田原のどか《↓(1946-1948)》(@豊田)、高山明(Port B)《パブリックスピーチ・プロジェクト》(@名古屋)、ホー・ツーニェン《旅館アポリア》(@豊田)の3点である。この3点に共通するのは、《表現の不自由展・その後》で議論を巻き起こした2点の作品と、起点となる時代背景を同じくしながらも、異なるアプローチで迫るものであるという点だ。いずれも、戦時中や戦後の日本で、いかに芸術文化が政治的に利用されてきたかを垣間見せている。

小田原のどかの作品は、日本の野外彫刻やモニュメントが持つ意味について問いかけてくる。日本の野外彫刻が、歴史的に政治的なプロパガンダを背負う装置として利用され続けており、戦前に多数制作された軍人像も、戦後に爆発的に増加した女性のヌード像も、その意味においては変わりがないことを伝える。小田原の作品は、当初は、今回問題となった「少女像」をテーマの一部としていたが、今回の騒動を受けて、別の作品に変更されたという。残念なことに、私が見たときには既に作品は変更された後で、作家がどのように「少女像」を見たかについては推測の域を出ない。しかしながら、小田原の作品を見て私が感じたのは、「少女像」も、小田原が作品を通じて提示する数々の彫刻と同様に、ある思想の表明のために利用されてしまっているのではないかということだった。

高山明(Port B)の《パブリックスピーチ・プロジェクト》は、日本のアジア侵略の正当化に利用された戦前のアジア主義者たちの言葉を現代のラッパーに朗読させるという作品で、今回は岡倉天心、柳宗悦、孫文のテキストの朗読が展示されている。これらの声は、いずれもアジアが文化の面で非常に近しい関係にあることを指摘しながら、アジアの友情と連帯を唱えるものだ。中でも最も印象的だったのは、柳宗悦の『朝鮮の友に贈る書』の朗読である。若い女性が少したどたどしく読み上げていく声が、いつまでも耳に残る。
柳のテキストは、基本的には、朝鮮侵略を行った日本政府の行いを批判するものである。朝鮮の芸術を「親しさの作品」「情の美しさが生んだ藝術」であると語り、それを愛おしむ自らの姿勢を表明することで、朝鮮の文化や人々に対する親近感を表明している。テキストの冒頭には、「情の日本」という言葉が綴られ、全体を通して「情」という言葉に満ちている。作品は、彼らの言説が、どのように日本のアジア侵略の正当化に利用されたかという具体的な部分にまでは踏み込んでいない。しかしながら、作品を鑑賞していると、日本が戦争へと歩んだ道が思い起こされ、侵略が行われた事実とテキストで示された親愛の情との間で、宙吊りにされるかのようだ。

ホー・ツーニェンの《旅館アポリア》では、文化人の言説、作品、表現と戦争との関係が示される。作品の展示場所「喜楽亭」はかつて料理旅館だった建物であり、出撃前の神風特攻隊員を迎え入れていた歴史がある。作品は、「喜楽亭」の関係者に当時の話を聞くころから始まる。複数ある部屋の各所にスクリーンが置かれ、古い映画を様々なシーンを抽出し、登場人物の顔を白く塗りつぶした映像とともに、1階では、喜楽亭に関わった人の証言や、豊田市で特攻隊に従軍した人々の言葉が語られ、2階では、小津安二郎や三木清、横山隆一といった学者・文化人たちの作品や言説の中に見られる戦争表現についての調査の結果が語られる。ヒアリングや調査の結果を淡々と語る声の合間に、戦闘機が飛ぶ音が挿入される。そして、その重低音が喜楽亭の古い建具をわずかに振動させ、その場所だけ戦時中に時代が逆戻りしたかのような感覚を覚える。

こうした作品は、太平洋戦争における日本という国のありかたや行いを、過去の記録や証言を通じてあぶり出し、映像や音やオブジェ等を通じて体感させることを試みるものである。
集められた資料がどのようなもので、どのように組み合わされ、どのように加工され、展示されたのか。鑑賞者は、そうした表現上の機微から、作品が発しているだろうメッセージを想像することになる。その行為を通じて、作品から何かを読み取ろうとすること。それが「解釈」であり、そこには、鑑賞者自身の「曲解」が含まれる。私自身は、この3つの作品から、先の戦争の時代の空気感に触れ、背筋が寒くなるような思いを味わったが、もしかすると、違う人が見れば、全く異なるメッセージを汲み取る可能性はある。

作品を見よ。
小田原のどかに倣って、私たちはこう言うべきなのだろう。しかしながら、ここには、もう一つの問いが立ち上がってくる。「作品を見る」とは一体どういうことか、という問いである。私が思うのは、「作品を見る」とは、「自他の『情念』と向き合うこと」なのではないかということだ。「作品を作る」という行為は、多かれ少なかれ、自身の中にある割り切れない思いや拘り、何か悶々としている事柄を、ある形に「消化(昇華?)」するプロセスである。そして「作品を見る」ということは、他者のそうした思いや感情の結晶と向き合うことである。作品と対峙し心動かされるとき、私たちは、作品を介して自分自身の感情とも対峙している。

大竹弘二と國分功一郎の共著『統治新論』によれば、デカルトやホッブズ、スピノザをはじめとする17世紀の哲学者たちは、人間の「情念」を細かく分類し定義することを熱心に行っており、その背景には宗教戦争があるのだという。宗教的な情念が、普通の庶民をも残虐な行為に駆り立てる凄惨な時代を目の当たりにし、哲学者たちは、人間の情念や宗教感情をコントロールしなければならないと考えた。そして、そんな彼らが宗教的感情によらない国家や統治のありかたを考え抜いた末に、近代国家を支える哲学や諸概念が生み出された。

私たちは、今まさに、人々の情念が世の中を変質させていく光景を目の当たりにしている。
今回のあいちトリエンナーレから引き起こされた事態は、あまりにも明白に、そのことを示す事例となっている。こうした事態になったがゆえに、今回のあいちトリエンナーレが掲げた「情の時代」、とりわけ英訳である「Taming Y/Our Passion」というテーマは、極めてクリティカルなメッセージを私たちに向けてくる。

『統治新論』は、副題に「民主主義のマネジメント」という言葉を掲げている。人々の感情の爆発によって、容易に社会が大きく動いてしまうということが起こっている今、私たち自身が「民主主義」に何らかの形でコミットしていくためにも、自身や周囲の情念と向き合うことは避けられない。

作品と向き合うことで「情念」と向き合うこと。
あるいは、作品と向き合うように「情念」と向き合うこと。
それは、「理性でもって感情を抑制する」というよりはむしろ、自身が感じた怒りを、不安を、悲しみを、いかに表明すべきかを考えるということだろう。
大切なのは、自分の感情の手綱を他者に握られないことだ。

情念に翻弄される時代だからこそ、私たちは、自分の感情のありかを確かにしておく必要がある。「作品を見る」という行為は、きっとその一助になると信じている。

【主要参考文献】
小田原のどか『彫刻を見よ』(「あいちトリエンナーレ2019」での配布資料)
柳宗悦『朝鮮の友に贈る書』(青空文庫:https://www.aozora.gr.jp/cards/001520/files/55377_48458.html )
大竹弘二・國分功一郎『統治新論 民主主義のマネジメント』(太田出版、2015年)


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