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無条件に正しいこと
生きることは苦しい。
大切なひとを亡くした時、
自分より年下のペットが死んだ時、
友人との関係に悩んだ時・・・
あらゆる局面で冒頭のような思いに駆られてきた。
楽しいことや嬉しいこともたくさん経験してきたし、家族は私のことをこれでもかというほど愛してくれたけど、思春期を過ぎた頃からいつだって心がジクジク痛むような問題や悩みと共に生きてきた。
自分が特別不幸なわけではないことは頭では理解していても、人生は苦行ベースなのだと長い間思っていた。
そんなことだから、「どうしてこんなに辛い中で生きていかないといけないのだろう。」「親を見送ったらもういつ死んでも構わない。」と、生きることに対して前向きになれないまま大人になってしまった。
26歳の冬、私は父親を亡くした。
父の闘病中、やっぱり苦しくて苦しくて、毎日死んだ方がどんなに楽だろうと思いながら過ごしていた。
そんな苦しさから逃れたくて、いつもよりたくさん本を読んだ。その中の1冊が、中島らもの『今夜、すべてのバーで』だった。
内容の説明は割愛するが、斜に構えている自覚がある人や根暗ながらもどうにか社会に適応しようと奮闘しているタイプの人にはきっと面白いと思う。
さて、その『今夜、すべてのバーで』の中で次のようなセリフがある。
「あたしは、(中略)生きる意志を杖にして歩いていく人たちの流れの中にいて、そんな人たちのためだけに泣いたり笑ったりしたいの。」
ハッとさせられた。
「なぜ生きねばならないのか?」という問い自体が不毛なものだったことに気付いた。
理由はいらない。
「生きる、生きねばならない」と愚直に信じるその意志が問答無用で正しくて、強いて言うならその生きる意志こそが生きていく理由なのだ。
考えてみればすごくシンプルなことだ。
生物である限り、「生きる」ということは第一の目的であり善であり最も深いところにある意志であるはずだ。
いろんな経験をして、たくさんの情報を見たり聞いたりして、私はそれをすっかり忘れていたらしい。
父の病床でこの一節を読んだ私は、近いうちに来るであろう別れを悲嘆しながらも、自分の生の正しさを確信していた。
予想に違わず、程なくして父は他界した。
しばらくは悲しいということ以外に何もなかった。
1年、2年と時が過ぎて悲しみを俯瞰できるようになった頃、素朴に思うことがあった。
こんな辛い思いをしながらもみんな生きていくのだなー
私もその「みんな」の内にようやく入れた気がした。
「生きる意志を杖にして歩いていく人たちの流れ」の内に。
みんなが知っていて、私が知らなかった生きる意志の正しさ。この絶対の事実の下に私はこれからも生きていく。
きっとこれからも耐え難いほど辛い出来事に直面することがあると思う。
でも私はそれを理由に生きることを放棄したりはしない。生きることは絶対正しいから。そしてその意志を、私は美しいと思うから。
死にたい誰かに、死にたがりの癖があるあなたに、この文章が届いて欲しい。私の答えは他の人の答えにはならないかもしれないけど、誰か一人でも生きていくことを肯定的に捉えられるようになったら、とっても嬉しい。
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