短編小説「傷」


PCディスプレイの隅っこにある時計に目をやると、18時を過ぎたところ。
今晩締め切りの仕事が先ほど終わり、提出したところだ。
無事期日に間に合ったことで、ほっと一息つく。

社会人になって3年目、仕事には慣れたが、締め切りだけは慣れない。
毎度、締め切りが近づくと、胃がキリキリと痛む。
もうすこし余裕を持ったスケジュールにしてもらえると助かるのだが、余裕があると、その分手間をかけることになるので、あまり変わらないかもしれない。

「今日はもう上がりだよな。はめはずすのもいいが、警察沙汰にならないようにな」
上司が声をかけてくる。
「ご忠告痛みいります」
俺は冗談っぽくいう。
「家と会社を往復するだけの人生はダメだぞ」
妻子持ちの上司は真顔で言うと、席へ戻る。俺はというと、大学以来彼女なし。連日の残業で、平日は自分の時間がとれず、休日も仕事に浸食されることがしばしば。彼女を作るどころではない。
「今晩、どうすんだ?」
向かいの席の先輩が声をかけてくる。先輩は、女好きで有名だ。一体どこで出会うのかは知らないが、今の彼女はファッションモデルらしい。直接聞いたわけではなく、あくまで噂だが。仕事三昧の先輩が、どのように時間を捻出して出会いを作っているのか、皆目見当もつかない。
「特に何もないです」
「相変わらずつまんねーな」
「失礼ですよ!」

俺は会社をでると、最寄り駅まで10分ほど歩き、山手線に乗る。
殺伐とした空気の朝の電車と違い、夜、特に金曜日は晴れやかな表情をした人が目につく。
「これからどこ行く?」
近くの女性が、ウキウキした声で、スーツ姿の彼氏らしき人に話しかける。
俺はこれからどこに行くか。
せっかく締め切りから解放された金曜日、直帰するつもりはない。いくつかお決まりのルーティンがあるので、その中から選ぶことにする。家の近所の焼き鳥屋で飲むか、家の最寄り駅近くのチェーンの居酒屋で飲むか、だ。家に近いので、電車の時間に縛られずに安心して飲めるのがポイントだ。しかし、今日はビールで祝杯、という気分ではないので。
「マックでもいくかな」
俺はいつもの駅で山手線を降り、地下鉄に乗り換える。家の最寄り駅に到着するまで、アプリでニュースを読む。日中、1000円近く株価があがったそうだ。久々の明るいニュースだからか、記事のコメント欄が大いに盛り上がっている。

「ご注文お決まりでしたらおうかがいします」
女性店員の明るい声に促され、俺はビッグマックセットを注文する。飲み物は、コーラと決まっている。
女性店員はお金を受けとると、てきぱきとドリンクとフードをトレーの上にのせる。
「お待たせいたしました」
女性店員は、にこやかな笑顔とともに、ビッグマックセットがのったトレーを差し出す。
俺は片手でトレーを持ち、空いてる席を探す。
金曜日夜にマックで過ごす人は少ないのか、空席が目立つ。
2人がけのテーブルにトレーを置き、鞄を手前の椅子に置いて、奥の長椅子に着席する。
いただきます、と小声で言うと、コーラを一口飲む。炭酸の痛いほどの刺激が、口内を刺し、心が満たされるのを感じる。
自分の体を、コーラという不健康な刺激物で満たすのは、快感であり、背徳的であり、真面目で誠実なサラリーマンの、一種の反抗なのかもしれない。会社ではルールに縛られ、上司には支配され、同僚には監視される。ならば、せめて自分自身の生殺与奪くらいは握っていたいというささやかな反抗。薬物も、使用した際の中毒性ばかりが語られるが、最初に薬物に手を出す動機は、社会や周囲に対する反抗ではないのか。
それから、ほかほかと暖かいビッグマックを手にすると、包み紙をはいで口に運ぶ。一口食いちぎると、肉汁が口の中いっぱいに広がり、ふう、と思わずため息がでる。旨いとは言えないかもしれないが、安定のジャンクフードの味に、満足する。

「で、昨日彼氏がさ」
女性の大きなアルト声が耳に届く。たった今入ってきた客の声のようだ。ブレザーの制服姿で、おそらく高校生。女3人で連れだっている。大きな声の女子高生は、身長が160センチはあり、ややぽっちゃりしている。もう2人は、華奢で小柄だ。
何の気なしに、その女子高生たちを眺めていると、華奢な女子高生1人と目が合ってしまう。とっさにその女子高生は、にこり、と俺に向かってほほ笑む。俺はびっくりして、目を逸らすこともできず、硬直してしまう。その直後、女子高生は、そんな俺になど気づかなかったかのように、視線を俺から外し、他の女子高生2人とカウンターにいって注文をする。
女子高生たちは、注文を終え、各々がドリンク、バーガーやポテトがのったトレーを受けとると、俺の隣りの2人がけテーブル2つをくっつけて、占有する。大きな声の女子高生は、気持ちよさそうに、彼氏の愚痴のような、惚気話のようなものを叫んでいる。
「みかは彼氏つくんないの?」
大きな声の女子高生は、先ほど俺にほほ笑んできた女子高生に、話を振る。『みか』は肩をすくめる。
「もうこりごりなんだよね」
「なにが?」
「上手く説明できないけど。一生懸命彼氏に尽くしても、彼氏は明後日の方向を見てる感じ?」
大きな声の女子高生は、しばし考える素振りをする。
「ふーん、何それ? 元彼の話?」
「だから説明できないんだって」
みかは、ほう、とため息をつく。

俺はふと、大学の時、3年ほど付き合った元彼女、さとみについて思い出す。もう4年も前だし、その時のさとみに対する気持ちも言葉でしか覚えておらず、リアルな感覚は思い出せない。ただ、さとみに振られた時のショックは鮮明だ。
「内定でた?」
大学三回生になって就活が始まり、同い年の当時のさとみが、デートで開口一番たずねてくる質問だった。
「まだだよ」
周囲が続々と内定をもらいはじめていた。俺は焦りといらだちとで心をいっぱいにしている最中、俺に追いうちをかけるように問いかけてくるさとみ。さとみも焦っていたのだろう。
それでも、俺にも1社から内定がでると、喜び勇んでさとみに報告する。
「どこの会社?」
しかし、さとみから返ってきたのは、形式ばかりのおめでとうの言葉と、冷ややかな質問だけだった。
「そうなんだ」
さとみに会社名を告げると、心底がっかりした声が返ってくる。大企業ではなかったからだろう。
「さとみは内定でたの?」
俺はおそるおそる聞く。もし大企業から内定をもらっていたら俺の立つ瀬がないし、逆に内定がでていなかったら、さとみを追い詰めることになる。
「うん。けど、できればもっといい会社から内定とりたいなと思ってる」

結局、俺に大企業からの内定はでなかった。さとみは、見事に大手メーカーの総合職の内定を勝ちとり、大変喜んでいた。俺も複雑ではあったが、喜ぶさとみを見て、必ずしも男のほうがいい会社に勤める必要はないか、と楽観的に考えていた。
「今日で最後にしない?」
俺とさとみは内定を受諾して、あとは卒業と入社を待つのみだと安心しきった、あるデートの日。サイゼリヤに入り、席につくや否や、さとみは俺の目をまっすぐ見て言う。
「最後?」
俺はなんの話か飲み込めず、さとみに問いかける。
「私たち、不釣り合いだと思うんだよね」
俺は、さとみの意味を察し、絶句する。その後の会話は覚えていないが、家へ帰った後、勢いでさとみの連絡先を削除して、悔しくてたくさん泣いたことは覚えている。少し落ち着いてから、男友達に事の次第を伝えると、
「女なんてそういうもんだよ。明日飲みに行こうぜ。話し聞くよ」
などと、LINEが返ってきたのだった。

気がつくと、俺は泣いていた。俺は慌ててスーツで涙を拭うが、涙はとめどなく流れてくる。さとみのことなんて長い間忘れていたし、当然、さとみに対する気持ちも今の俺にはない。仕事のしすぎで疲れていて、感傷的になっているのかもしれない。
「使いませんか?」
俺が自分の涙に戸惑っていると、みかが、突然ハンカチを差し出してくる。俺はまたもどうしていいのか分からず硬直し、涙も止まる。
「大丈夫ですか?」
みかは、硬直した俺の顔を不安げに覗き込んでくる。みかは、まだあどけなさが残っているが、目鼻立ちが整った顔で、美人と呼んで差し支えないだろう。天然パーマ気味なのか、頭の高い位置にあるポニーテールの毛先が、くるん、と巻かれている。
俺は我に返ると、「すいません」と言いながらハンカチをうやうやしく受けとる。3人の女子高生が見守る中、俺は涙をハンカチで拭う。
ハンカチのぬくもりが、女子高生たちから俺に向けられた優しさのようで、凍った俺の心を解かしていく。溶けた氷が涙となって、せっかく拭った目から、溢れでる。恥ずかしいやら、みっともないやらで、その場を立ち去りたかったが、涙は止まらない。

涙が出尽くした後。
「ハンカチ、洗って返しますね。差し支えなければ、連絡先教えていただけませんか?」
「ハンカチはたくさんもってるので、返していただかなくても大丈夫ですけど」
みかは言うと、次の言葉を考えているようだったが、突如、何か良い案を思いついたのか、パッと表情を明るくする。
「LINE交換しませんか? ハンカチ、返していただける時に連絡ください」
みかは言うと、スマホをとりだしQRコードの画面を見せてくる。俺は慌ててスマホをとりだし、QRコードを読みとる。
「みかだけはおかしくない?」
大きな声の女子高生が不満の声をあげると、QRコードを差し出してくる。もう1人の女子高生も続く。

その日の残りは、ビッグマックやポテトを食べながら、女子高生3人と自己紹介をしたり、近況を語り合って過ごした。
帰り際、「また会いましょう」とくったくない女子高生たちの別れの言葉に対し、「無防備な女子高生たちだな」と思いながらも同じ言葉を返して、帰途についた。
降ってわいた新しい交友関係に、子供のように心をときめかせながら。


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