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【日記】はじめて色気を嗅ぎ取った手のひら

子供の頃、住んでいたマンションの1階には自転車屋さんがあった。
ランドセルを背負った私は、いつも階段を登る前、その自転車屋さんを覗いていた。

自転車を見に来たわけではない。
いつも奥の椅子へ腰掛ける「おじさん」に構って欲しかったのだ。


おじさんは1階に住む大家夫婦の旦那さんで、自転車屋さんを兼業していた。

あまり覚えていないが、
所々きらめく白髪の短髪と、ふっくらとした泣きぼくろ、笑った時の柔らかな目尻の皺は何となく覚えている。

いつも上下灰色のツナギで、立ち上がるとヒョロ長さが際立って、少し油っぽい匂いがしていた。


声はほとんど覚えていない。
小学校での出来事、両親や友人のこと。
いつも喋るのは私ばかりで、おじさんは要領の得ない私の話を静かに聴いてくれていた。

よく下手くそな子供の話を根気よく聴いてくれたものだと、我ながらありがたく思う。


ある日のこと。

いつものように自転車屋さんを覗けば、おじさんは使い込まれた自転車のタイヤを触っていた。

「おかえり」「ただいま!」

仕事の邪魔をする気はなかった。
けれども、淀みなくタイヤのあちこちに触れる手つきに、何となく目が吸い寄せられた。

おじさんの手をまじまじと見つめたのは、初めてだったと思う。

薄っすらと黒い煤のまぶりつく手の甲。
迷いのない指の、付け根に寄った千々の皺。
洗っても落ちなさそうな、爪の淵の煤汚れ。ほんのりと鼻をくすぐる、差し油の匂い。


邪魔だから、帰らなきゃ。
そう思っていたことすら忘れて、おじさんの手のひらを食い入るように見つめていた。

あれが、人生ではじめて「色気」を嗅ぎ取った瞬間だった。


醤油多めの茶色い料理をつくる手つき。煮物をグツグツ煮込む、霜焼けした祖母の手の甲。あれにだって色気を感じてしまう。ここまでやってきた、彼女の歴史。それに直面すると、グッとくる。

おんなのこはもりのなか(藤田貴大 著)
涙に伴う、目やに。むくみ。より


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