世界を会計し、外からやってきた流れを記帳する
巡礼生活において、記帳と会計という二つのキーワードを大事にしていることに気づいた。
記帳とは、誰かが何かをくださった時に、その出来事のことを記すことだ。一般的な記帳の感覚では、お金の出入りや物の管理をおこなうために、台帳に記録していくことを記帳することだというのだろうが、私の記帳の場合は物がやってきた、お金(お布施)がやってきたというふうにやってきた流れ、受け取ってくださった流れを可視化することに努めている。
人は生きていく上で食べる必要がある。食べ方はたくさんの方法がある。動物や植物から直接に命をいただくこと、他の人からもらうこと、自分が働き動植物を育てること、お金という交換しやすいツールを介在させて買うこと、物々交換をすること、など。
現行の経済システムにおいて、別に野菜をもらったからといって、その野菜がやってきたことの記録を取っている人は少ないだろう。しかし、一方で、売り上げや贈与というかたちでお金がやってきた時には、それを記録しなくては、と思う人が多いのではないだろうか。記帳という概念はお金との結びつきが強い。
貨幣の起源を遡る時、貨幣は「記帳すること」であるという説に出会うことがある。また、古来の経済、市場の取引において、記帳をすることの重要さが語られている。記帳をするということは経済の要諦であるのだろう。
経済とは何なのか。これは流れの享受であると思う。その中では特に食べ物が重要なのだけど、それが巡ってくる流れの中に身を置くのと、巡ってこないのでは、生存確率に大きな違いがある。現行の社会システムにおいては生活保護を受けるということができるため、”国”に所属しているのであれば、生きていくことはできる。ただ、多くの人は、人生は食べ物を食べるだけが全てではないと思っている。人生のいきがいや仕事を通した自己実現や、そういうものを求めて、食べ物以上のことを望む。私だってそうだ。ただ、食べ物を食べることができるからといって、満足しきれない。
しかし、逆にいうと、毎日過ごすことができる屋根・壁・床があるということ、そして食べるものがあるという現状に対して、ありがたくてたまらない。自己実現うんぬんの前に、そういう状態が成り立っていることは当然のことではない。巡礼生活で「家無し」で「食べ物がいつ尽きるかわからない」にもかかわらず「お金を主体的に手放すことがある」という生活をしていたら、私たちが生きている前提になっているもののありがたさに意識がよく向くようになった。とてもありがたい。
さて、経済という言葉を語る時、生きるという流れそのものがそれだと思うようになったのだけど、それは取引という形に限定されるものではない。取引は経済のほんの小さな一要素でしかないい。その背後のもの、それをあえて贈与という言葉で言い表すならば、人間が圧倒的に自然から受けてしまっている”もはやカウントしきれない無限の贈与”がある。見返りが求められていない純粋贈与だ。
自然の動植物にアクセスすることによって、人間が命の流れを頂いてくる。そういうスタイルにおいては、命の恵みがやってきたと認識することができる。私たちがカウントすることができるのは、ほんの少ししかない。人間と人間の間におこる現象はカウントすることができるだろうと思うけれど、いつの間にかやってくださっていたことの方がはるかに多いであろうから、カウントすることができるのも、ほんの一部でしかない。
カウントとカタカナで書いていたが、数えるという日本語に戻す。私にとって、記帳をするということは、数えることだ。取引が発生したことやお布施が巡ってきたことや、何かを意図してやってみたことを記録していく。記録されたものは件数を数えることができる。可視の経済だ。ただ、もちろん不可視の経済もある。たとえば、毎日毎日、「私は太陽の恵み頂いた」というふうに記帳するわけでもないし、太陽という区切りを外してしまえば、ただあるのは現象のみであり、連続して何かが起こり、変化・流動しているに過ぎない。そういう意味では、常に、可視の経済の背後には、不可視の経済がある。そして、経済の外には無数という流れが蠢き続けている。
私は、記帳する対象をお金だけでなく、自分が感じた流れを書くことにした。毎日、不可視を見つめていこうとすると、それは不可視の想像をすることになる。その時に、記録することができないにもかかわらず、記録することを試し続けてみること、それが記帳だと思った。物がやってくることもある、想いがやってくることもある。お金がやってくることもある。さまざまな方が何かをくださる。そして、その方々の背後に想像もつかないくらいの COUNTLESS / 数えきれない世界がある。
そういう世界に支えられていることを思い出すたびに、私は感謝するようになってきた。そういう意味では、記帳は感謝が起こるポイントが私の身に発生することである。
また会計という言葉も、記帳、つまり、不可視を経済として可視化していき、おのずと感謝することに関連した言葉だ。
カウントすることが到底しようがない世界。私たちの日々の生活はめまぐるしく変わっている。それにもかかわらず、世界が変化していないという錯覚が浮かんでくることがある。私も一箇所に滞在している時には、そういう錯覚に陥ることがある。しかし、世界も私も昨日とは違う。変わってしまっている。さらには、自分たちが認識できる、つまりはカウントすることができる世界の変化だけにとどまらず、カウントしようがない世界も存在している。
そんな中でも、日々出会いがあると思うのだよね。自分自身が確固とした変わらないものであるならば、出会いなんてない。変わらないんだもの。でも自分自身の枠組みを、「自己」という枠組みを離れることによって、新しい世界が自分のもとへとやってくる。その時の印象的な訪れのことを「出会う」と呼ぶんじゃないだろうか。また、同時に自己という枠組みを離れることによって、新たな自己が生まれ出てくるということも起こる。世界への応答の仕方が変化していく。
つまりは、会計というのは、私が生きているのは、カウントすることができない世界だけれども、その世界の中で、カウントしてみようという試みなのではないかと思う。会計の計は「はかる」。ものさしを当てて、カウントすることと結びついている。世界という”無数”に会い続けるためには、”会計不能である”ということを受け入れながら、自分が世界を見るものさしを変化させながら、自分から出ていかないといけない。自己という概念はすぐに硬直化する傾向が強いので、常に出ていくということが、会計の本質に違いない。
今日も、世界を会計の対象にし、記帳を試みる。見えないから、計れない。しかし、そのほんの一片でもいいから手元に届いていることを知ると、ありがたさを感じる。