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突然スクーターで野生のおばあちゃんが現れ、「お弁当食べるかい?」と話しかけてきた。

※2021年8月のお話です。

巡礼生活をし始めて1ヶ月くらい経った時、私は熊本を歩いていました。目の前に広がるのは、果てしなく広がる熊本の田んぼの景色。空には大きな大きなモコモコとした入道雲が浮かんでいます。風は、田んぼの表面を撫でて、波として伝わっていく。私は、大した風を起こすわけでもなく、ゆっくりとした歩きのスピードで、歩いていました。

その日は2021年の8月のこと。とても暑い日でした。ジリジリとした天気の中、歩いている身体からは汗がアスファルトに落ちていきます。私は冬用のとても地厚い生地の作務衣を来ていました。もう蒸れて仕方ありません。暑さに意識が朦朧としながら、歩を進めていました。

ブーーーーン。前の方から一台のスクーターがやってきます。少しずつ音が大きくなってきて、自分の右横を通り抜けていくのかと思いきや、スクーターは急にスピードを落とし、運転手はクッと顔の向きを変えてこちらを見ました。少しだけビックリして運転手の方を見ると、背が曲がり、農作業着を着たおばあちゃんと目が合いました。おばあさんはこう言いました。

「お弁当食べるかい」

おばあさんは近くのスーパーで買ってきたというお弁当をスクーターのカゴから取り出し、ビックリしている私の方に差し出しました。なんだこの状況は?と思いながらも、この日私は食べるものがなかったので、このお弁当をありがたく受け取りました。巡礼生活の最初の頃は食べ物を買うことすら自分に許していなかったので知り合いがいない地域を歩く時にはとにかくお腹が減っていました。この日も、もれなく食べ物は手元にありませんでした。そんな状況を察知したかのように、おばあちゃんが現れたわけです。薮から棒ならぬ、薮からおばあちゃんです。

おばあちゃんは、私が道端で座って休憩していた様子を見て、すぐにスーパーにお弁当を買いに行く行動に出たようです。スーパーに行っている間に私が思わぬ方向に歩き始めていれば、おばあちゃんと私は2度と会わない運命だったのでしょうが、運良く会うことができたのでした。私は、おばあちゃんが差し出すお弁当を受け取ると「ありがたく頂戴します」と返事を返しました。

おばあちゃんは聞きました。「願っていることはあるのかい?」と。

私はその頃、巡礼生活をなぜやっているのか、どういうことを期待してやっているのか、全く言語化できませんでした。身体が旅に出たがっていて、それに委ねたらこうなったのです。「いえ、特に願っていることはありません」と返事しました。

するとおばあちゃんは「自分が願っていることはなくても、願いを託されることがあるからね」と言いました。

この言葉は今でも、はっきりと覚えていて、うまく消化することができていない言葉です。

私は、言語化をできないけれど、願っていることがあるのだろうな、とは感じていました。そこにおばあちゃんが言った「願いが託されることもある」ということをどう解釈したらいいのでしょうか。未だに考え続けています。私は私の願いが私のものではなく、人々に共通する根底の願いに触れてしまった時に、託し、託され、新たな境地が生まれてくるのではないかと今は思っています。

他の人への祈りに転化すると言い換えてもよいかもしれません。逆に他の人の祈りを受けて生きるという逆方向の流れもありそうです。

おばあちゃんは「じゃあ、またね」と言い、スクーターを走らせ去っていきました。名前も名乗らずに去っていったおばあちゃんは、私の頭の中で今も生き続けています。

「願うことはなくても、願いが託されることがあるからね」

私は何を託されたのか。お弁当を食べながら、ただ考えていた夏の日を思い出します。

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