小躍りするような感情でお金を受け取り、贈り出す。返すことにまつわる思索のあれこれ。

お金に楽しい色をつけてあげる。1年ほどお布施を頂いて、お布施を贈る生活をしてきて、積極的にお金に色をつけることを学んできました。

昨年のことなんですが、とある時にお金を全部使い切ったんですね。今のあり方ではいわゆる使うことができるお金は頂かないと手に入りません。ですので、お金を使い切ることはいつも起こることです。1番、お布施を頂いた時の投稿はこちらでした。

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この時、お金は確かになくなった状態だったんですが、めちゃくちゃ楽しい気分になっていたんです。むしろ、重さがありませんでした。この投稿自体も特段推敲もせず、楽しい気分で思いつくままに書いたものです。面白さを感じたままに、出した。それに対して面白い、楽しいと反応してくれて、お布施したよと何人もの方にご連絡頂いたのを覚えています。

こういう楽しさや面白さに乗ってお金がやってくる機会があったり、なかったり、紆余曲折しながら1年ほど生活してきました。そうすると、段々と、もともとお金に対するネガティブな感覚がほどけていき、お金を扱うこと自体を楽しむことができるようになってきました。

そうなってくると新しい感覚が芽生え始めました。それは、楽しさ、面白さが湧いてきたら、その時点で大丈夫だという感覚になることです。それには身体感覚が生じてきているということ以外、対して根拠もないし、それは他の人から見た時に見えないことで根拠にもなり得ないのですが、大丈夫だと感じます。身体感覚を信じるということをできるようになってきたのは、楽しい気持ちの時にお金を贈ってきてくださった皆さんのおかげだと強く思います。

この時の感覚の起こりとその感覚については、もう少し深めてみたいと思っています。楽しい、面白いという感情は、自分の身体感覚そのものではありません。ここには「ありがたい」という気持ちも混ざっています。小躍りしてしまうようなそんな心地です。根源的な喜びというか、泉から水が湧き出してくるという流れの感受を越えた、喜びの間欠泉とでも呼べそうです。どういう条件下になると間欠泉スイッチが入るのか、探求中です。

喜びが溢れてくる時、その勢いのままに場を調えていくと、そこに来た方々に感覚が伝播していくように感じています。楽しさの波を起こすようなものです。相手を同じ感情になるようにコントロールするのとはまた違いますが、自分から生まれてくる流れが楽しいものになると、相手の反応は笑顔になることが圧倒的に増えました。子供ちゃんの場合は小躍りすることがありますし、大人であっても子供ちゃんのように目をキラキラさせて振る舞うことも多いです。日々行うことは、自分自身をニュートラルに調えることで、そもそも生きているということ自体がかけがえのないことだという視点に立ち、生きてしまっている喜びを感受することだと思いました。ちなみに、ここに至るまでに悲しみの感情や自分が根源的に願っていることを受け入れていくことも大事なプロセスだったと感じています。

先日の鶏肉100キロチャレンジの際のお金集めには結構手こずりました。自分の中で、集まらなかったらどうしようという不安と喜びが溢れてくる感覚とが同居していました。私がしたのは、TwitterとFacebookでお布施を募り、ただ信じて待つことでした。結果的にお金が集まったことで、「助かったー!」となったのですが、不安に飲み込まれることなく喜び感覚を信じることができてよかったです。

※とはいえ前回の100キロチャレンジは、少し「無理」が生じてしまった場でもありました。100キロを揚げるということに意識が向かってしまって、一部手伝ってくださる方々にひずみが生まれたのでした。それを感じたのは、他の方々の言動からでした。たとえばそれは、「メッセージで絵文字が少なくなったり、移動のスケジュールの都合や怠け心から片付けを大きくお任せすることになったりしました。実験の活動とはいえど、他の人たちとの関わりが生まれる以上、その中でのあれこれは生まれてきてしまいます。今回、イベントという言葉を使うことが最初から最後までなく、あくまで遊びとして通したのですが、改善の余地が多々ある内容でした。手伝って頂いた皆さん、本当にありがとうございました。

さて、話を戻します。色々うまくいかないこともうまくいったと思うこともたくさんあったお金の実験ですが、やってみて本当に良かったのは確かです。特に、即時的なリターンを前提とした(つまりAさんから巡ってきたお金を受け取り、何かしらの物や体験を用意して、Aさんに巡らせるということを前提とした)コミュニケーションをひたすらに止めてみて開けてきた視界から見えることをもっと言語化していきたいと思います。

このあり方の良さは、目の前の何かを受け取ってくださる人たちから頂くことを前提としていないので、本当に気兼ねなく「どうぞ」とお渡しできるところです。「あの人は何かを返してくれた。この人は返してくれなかった。」という葛藤がめちゃくちゃ少なくなりました。贈与の3要素「受け取る、返す(返礼)、贈る」のうち、返すというコミュニケーションをしなくていいよと言い続けたんですよね。逆に受け取る時にも、返すというアクションはしませんと言い続けました。そうすると、一方的に贈ってくださる方々が贈ってくれるという状況が増え、こちらからは贈ることへの見返りのようなものから解放されていきました。

実験の前には、「見返り」は「交換」に生じるものだと思っていましたが、贈与のコミュニケーションにおいても、「何か返ってこないかな」という期待はひっきりなしに生じてきました。それが浮かんでくるたびに、「浮かんできたなぁ」と脳内でそれを眺めて、ただひたすらに流していくことを繰り返しました。今後どのようになっていくかはわかりませんが、楽しく経過観察していこうと思います。

「返す」ことを手放したあり方を実験してみた上で、ぶち壊すようですが、「返してもいいじゃないか」とも思いました。どうでもいいんですよね。返すことは義務じゃありません。むしろ、楽しい気持ちが溢れ出てしまった時に、自然と出てくるがままにしていくということが大事なのであって、返すことになるかどうかなんて、気にしなくてもよかったのかもしれません。

しかし、もちろん、自分の場合はあえて「返す」ことを日常生活の中で少なくしてみたからこそ、どっちでもいいかーという気付きや達観にいたりました。私にとって、このタイミングだったからこその気付きだと思います。

返すことはつながりを深めるという意味で大事な営みです。関係が続いて行く時に、頂いたものよりも多く返したり、少なく返したり、全く同じ分だけやりとりするということが、次の贈与や返礼を呼び込むと思います。そのあたりに意識的になりつつ、うまく生活の知恵として「返す」ということを活かしていきたいと思いました。

なんか、ツラツラ書いてきてしまったのですが、結局は、喜びが溢れ出てくるスイッチ探しを続けることが、贈与的お金の巡りをゆたかにしていく上で、さらには交換的な商いをもゆたかにしていく上で重要なのだと思いました。すっごく当たり前のことで恐縮です。当たり前だけど、大切なことに気づかせていただいて、ありがとうございます!

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