「見返りを求めないことは善」 「見返りを求めることは悪」という考えを脱する

仏教の”お布施”という概念・慣習を参考にしながら贈与の実験をやってきたけれど、その中核にあったのは、リターンを求める自分をどう扱えば良いのか?という問いだった。言い換えると、見返りを求めないことをどれだけ徹底できるか、ということを実験してきたことになる。

見返りを完全に手放すと、そもそも”通常の”経済活動を営むことができない。商品をつくって売る、ということが基本的な経済活動のポイントだ。商品を売ると同時にその場でお金を払ってもらう。お金が返ってくると期待することはまさに見返りを求めることだ。自分の場合は、1年半、一部の例外を除き経済活動を行うということを放棄しているから、経済的文脈の見返りというものは発生しづらい生活を送っている。それでも見返りを求める心が止むことはない。

お布施という行為をしながらも、見返りを求めてしまう自分が顔を出す。お布施というものは手放す修行なのだけど、たとえば「未来に何かしらの形で来ないかな〜」とか、そういう気持ちがやってくることは多い。そういう意味で、私のお布施の取り組みというのも、もはやお布施になり切れていなかったものがたくさんだろう。

さて、さまざまな試行錯誤を経て、今たどり着いたのは、見返りを求める心が生じてもOK、というあり方だ。逆に見返りを求める心がわいてこなくてもOKだ。

別に試行錯誤せずとも、最初から身体で理解できていたらよかったのだけど、けっこう時間がかかってしまった。でも、むやみやたらに「見返り」というものに悩まされるということにはひと段落がついているのだから、まぁよかったのだろう。

ただ、「見返りを求めることは悪」という考えは脱したけれど、むやみやたらと見返りを求めていこう、というわけじゃない。あくまで、「見返り」に執着しないということが今回の気づきだった。社会の中で立ち回る上では、「見返りを求めること」と「見返りを求めないこと」の二つをグラデーションのように組み合わせながら、しなやかに生きていきたい。


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