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23年度、5回目の0リセット

こんにちは。23年の2月5日にお金が0リセットされました。

5回目の0リセットは2月6日の10時半ごろでした。2月5日の夜に0リセットしたところ、1人の方からPayPayでお金を頂きました。まぁ、寝て、起きたら、どうにかなっているだろう?と思い、いったん就寝しました。

その結果は、1人もお布施してくださる方はいませんでした!笑

こんなこともありますね。

身体は結構ざわざわしていましたが、「大丈夫なのではないか?」というふうに思い、もう一度SNSで呼びかけてみることにしました。

書いている間は、ざわざわしたり、大丈夫かーと安心感があったり、行ったり来たりしている感じでした。0リセットをどう捉えるかによりますが、「恥」だと思うと、何度も何度も連発したいものではありません。ですが、0リセットする生活をしますって言ってしまっているし、どうしようもない恥はここに置いていくんだと思い、5回目の0リセットの文章を書いていました。

0のお知らせ。

昨日は0のお知らせをしましたが、再び0になりました。昨日はペイペイで500円を下さる方が現れ、今日はその500円を使って作業場所を確保することができました😂

「地に落ちた存在である」

とある臨済宗のお寺のお坊さんがおっしゃっていたのですが、「出家者は地に落ちた存在でなくてはいけない」という言葉が印象に残っています。

2500年前から出家者と呼ばれる人たちがいましたが、(超おおざっぱに言うと)その生活スタイルは、日々修行をすることを第一にし、稼ぐことを放棄し、皆さんからのお布施で生きるというものです。それは仏教の大きな流れを生んだお釈迦さんが生まれる以前からインドの文化に見られる光景だったらしいです。私はそれを知った時に”お布施”の実験を仏教の系譜に位置付けることをやめました。もう少し広く「与えること(こちらからすると受け取ること)」の実践だと思っています。



私は仏教の出家者という感覚ではないのですが、無色に近い出家者という感覚があります。出家者という羽織ものを着てしまっていますが、それも一つの枠組みに過ぎないので、時期を経て、脱ぎ捨てる時がきたら、また脱ぎ捨てていくと思います。とはいえこのような生活になってから気づくことはめちゃくちゃ多く、生き心地がよくなってきたのは確かです。そもそもが皆さんに支えられて息をしているということを忘れずに、地に落ちて、地に足をつけて生きないといけないなと思っています。それのきっかけになっている仏教の系譜や出家者という2500年以上も前の方々の営みの歴史には心から感謝しかありません。

恥。あえて言うなら、自分自身がいつの間にか持っているプライドを手放す必要があると感じています。京都大学を卒業したとか、本を出したとか。そういうものに捉われたくはないですが、ユニークな人、魅力的な人が現れた時に比較してしまって不安になると、そういう過去の何かを引き合いに出して、自分の気持ちを安定化させようとするという思考の働きが起こることもあります。

プライドって厄介だな〜。どう付き合っていこうか。そういうことを考えている最中に、臨済宗のお坊さんの「地に落ちた出家者」というものを思い出したのでした。

突然かかってきた電話

まさに上の文章を書いていたのですが、突然、電話がかかってきました。電話の主は、去年から度々相談に乗ったり、話を聞いたりする相手になってきた人でした。その方が23年初めて連絡をくださって、「あけましておめでとう」から始まる雑談が始まりました。

その方は、4回目の0リセットの文章を見て下さったらしく、「0リセットに共感しました」と伝えてくれました。それで、今回、お布施してくださるというのです。

私の巡礼および、お布施の生活は、支えて下さる方々がいなくなったら、今の形は継続していくことはできません。特に、あった方々に「お布施してください、お願いします」という声がけは基本的にやりませんから、そういう流れが完全に止まったら、終わりです。

いつも、終わりが訪れるかもしれないと思っているのですが、500円でスタートした2月6日は「終わりかもしれない」というざわざわ感が生じていました。何かしらの形で別の工夫を行いながら、何らかやっていくと思いますけどね。

そんな中、口座にお布施しますと言って下さって、もうめちゃくちゃ有り難くてですね…🙏 

実はその日、別府から由布院にいくことになっていたんです。由布院の方でとあるカフェ・ギャラリーを訪ねることになっていて、人に会う予定でした。

しかし、別府から由布院はバスで940円、電車で1130円かかります。PayPayのお金では両方とも払うことができませんから、5回目の0の時には、せめて交通費だけでも確保しないと「お会いする予定になっていた方にお会いできないぞ」と、そういう焦りも生まれていたように思います。

そんな流れの中で、予期せぬ電話がかかってきて「お布施します」という言葉。安堵が広がり、「よかったぁ」と肩の力が抜けました。0のお知らせの文章を書いている、まさにその時にかかってくるなんてね。本当にありがたく、うれしかったです。

そのことを書き足して、0リセットの文章を書きました。

さて、0のお知らせーーーー。だったのですが、この文章を書いている、まさに先ほどのこと、電話がかかってきました。昨年よくお話を聞いていた方が、少しばかりお布施を贈ってくださるとの連絡でした。自分のお金が500円→0円の状況のことは微塵も知らなかったそうですが、有難い電話にとっても助けられています。ありがとうございます。。

今日は別府から由布院にどうしても行きたいと思っていたところだったので、本当によいタイミングで助かりました。由布院では、4月に再訪し、空揚げしたり、表現の場を作らせて頂く予定です。

ということで、昨日の0のお知らせ→500円→0円になる→電話が届く→ファー(安心)という流れでした。

今日の危機は脱出です。明日は明日の風が吹く。
日々、ありがとうございます。

ありがたいなという実感が起こり、これ以上、募る必要もないと思ったのでしょうか。特に口座情報を載せるでもなく、文章を書いて終わりました。

すると、この投稿に対して、複数名の方から反応を頂き、お布施を頂戴することになりました。

その中でもとっても印象的なコメントがありました。

知り合いの方:0ってなんだろう。ないのかな、無尽蔵なのかな、なんだろう。でも、やっぱり、0なのは財布や口座だけであって、しょうけいさんから何かを受け取ったり、分かちあっていたりしてきた感覚がしっかりとあります。しょうけいさんの存在を感じなおすことができました。

このお知らせ、ありがとうございます。感謝を感じて、なんだろう、言葉にしきれてないのですが、

お布施?寄付?小布施の意味はまたあらためて味わうとして、自分の感じたことの表現として、先ほど、少しですがお贈りしました。

きっと届くのは明日なのかしら。まずは、あたたかいもの食べてね。

このコメントを頂いた時に、なぜだかわからないんですが、涙が出てきました。ただただこみ上げてくる何かを感じました。

「このような世界に生かして頂いてありがとうございます」という感謝も湧いてきます。いつも意識したいと思っていることだけど、0円の時の一時的に【無い】状態だったからこそ、【有る】に転化したことに対する驚きと、人の温かさに触れて、何かの蓋が取れたのかもしれません。

いまだにうまく言葉にならないので、身体に生じた感覚を味わっています。

財布や口座はよく0円になりますが、つながりという意味では全く0ではない世界。さまざまな人間に限らず、世界に様々な生き物がいて、どうしようもなく命を殺めて、頂いて生きている。

その連なりと巡りを一身に受けることの喜びは、ものすごく大きいかもしれない。誰に何を伝えたらいいのかもわかりませんが、ありがとうございました。

頂いたサポートは、生活と創作(本執筆)のために、ありがたく使わせて頂きます!