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お寺で学んだ「力になること」の大切さ

8月12日の午後に北鎌倉を後にして、よくお世話になっているお寺さんに移動しました。お世話になるようになったのは23年の4月からで、このお寺の皆さんがいなければ、今の位置に立つことはできておりません。めちゃくちゃエネルギッシュなお寺と皆さまから、多くの学びを頂いています。

その中でも大きな学びだったのが「頼ること」にまつわることです。こちらのご住職さんは頼られるのが好きで、いろんな形で多くの方々に応えてきています。23年の私は「頼ること」「頼られること」がなんだかうまくいっていない時だったのですが、ご住職さんのあり方から影響を受けて、「頼ってみよう」「頼られた時によりよく応えていこう」と思うようになりました。

ここからは私の「頼る」についての話です。

私は「頼る」という行為を「力になる」と言い換えることもあります。力になる前に力が湧いてくる状態に調えていくのがそもそもの大事な仕事だと思っています。力が湧いてくる状態は、私の場合は私という区分けを超えてやってくる流れを受け取ることによって成り立ちます。自分の力を養うために、自分で力を養うことを半分諦めています。日々関わる機会が生まれる方々に力を与えて頂いていますし、たくさん力を借りています。さらには食べるということ自体が自分一人では為し得ません。動植物から力をお借りしています。そういうことを忘れないようにしたいと思っています。

とはいえ自分でしやすいことも行なっています。私の場合、具体的な身体の調整は、ヨガするのが効果的だということがわかってきました。身体が通っている感じやすくなるように朝、夕にやっています。

「頼る」という言葉を使う時、少し関係性に踏み込む感覚を抱きます。普段、泊めてもらうという時やご飯を頂くという時、それほど「頼る」という感覚はそれほど生じていません。このお寺さんに泊まっている時には、呼びかけがあった時に応えることはありますが、そうしないと滞在させてもらえないというわけでもありません。

「頼る」というよりも、「お世話になっている」に近いかな。

「頼る」は「できないこと」や「困りごと」が発生した時に行われる行為だと思っています。ある意味、「泊まらせて頂く」ことや「食べること」はこのお寺さんがいないと絶対に達成できないことでもないので、「頼っている」という感覚になりにくいのかもしれません。ただ、お世話になっているし、私の関東での日々は間違いなくこのお寺さんのおかげで成り立っています。いつも感謝の念が湧いてきます。

こう思うと、「頼る」ということは、お互いに縛り合わない感覚を共有している間柄で発生すると、いい感じなのかもしれません。お寺の方々と私の間柄でいうと、常に貢献することが求められる関係ではないから、時々頼み事がやってくると応えることができるきっかけをもらって嬉しくなることが多いです。 
 

さて、頼ることに関するあれこれについて書きましたが、24年の8月12日、13日、14日、15日はお寺のお手伝いにガッツリ入りました。特にお手伝いしてくれない?と言われたわけでもありませんが、お寺のお盆はとにかく忙しいので、少しでも力になれたらと思い、「お手伝いできます!」とその流れの中に入っていきました。

そもそもこれまでたくさん頂いてきていて、すでに有り難い気持ちでしたので、「謝礼について考えて下さっていたら、必要無いです」とお伝えしました。手伝うという行為自体の中に報酬が埋め込まれているような感じです。「手伝っていい気分であることができる」という報酬をいただき、ありがたい数日間でした。

これまで受け取ったものがあまりに多く、たかが3日・4日ほどお手伝いしても返すことはできません。しかも、受け取ってきたものは金銭換算してこなかったですし、どれだけ力になったら返すことができるのかも謎です。しかも、手伝うとそれはそれで喜びが生じてくるので、さらにその場で報酬が生じます。

惜しみなく与えて下さることからの学びの多さに感謝です。

せっかくお寺と皆さんから、良き流れをお裾分けしてもらっているので、自分の器と行いを通して生きる力を増幅し、これから関わる方々の力になる瞬間が増えるように試行錯誤を続けていこうと思います。

そんな感じで今日は終わり。
良きお盆でございました😌🙏





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三浦祥敬(しょうけい)@アートプロジェクト・fuwatari
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