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この一年「わかりやすい対価」のようなものをうけとるという人間関係の在り方から降りてみました。自分からすることは贈ることとして対価を頂くことを前提とせず、何か受け取るときには何かを返そうとせずに頂くというあり方です。

今日のことです。

いったんこれまでの生活の実験のことを振り返り、生きるスピードを再調整したいなと思っているタイミングなのですが、偶然、友達から「話そう」とメッセージが飛んできて、突如、対話をすることになりました。

それが自分自身のこれまでのあり方を振り返るきっかけになったのですが、その時に出てきたのが「対価性」というキーワードでした。

これまで対価という言葉に触れるとき、多くの場合、日常の中の経済の話をする時でした。何か商品もしくは価値を生産し、売る。それに対して対価、多くの場合、お金を頂くという構造はわかりやすいですよね。

そういう日常の営みに対して「それ以外のあり方」はあるだろうか?という疑問からスタートし、結果として「お布施」という言葉を皮切りにしながら、見返りなき巡りについて実験を進めていくという流れになったのでした。

と思っていたのですが、もう少し人生を振り返ると、少し違う風に見えてきています。ここからは、すっごく個人的な話です。

子供のころにこんな場面があったことを覚えています。お盆の時、お経を読みにお檀家さんの家に行きました。* お盆の手伝いをし始めたのは小学校3年生くらいの頃です。何軒も家々を巡っていくのですが、とあるお宅にお邪魔した時にふと思ったことがありました。おばあちゃんが、こちらにお盆の上に乗った「お布施と書かれた封筒」を差し出しました。小さい頃からわからないままに、「受け取るときには、一度お盆を上にあげて、それから袋をもう一度上げて、それを持ってきたバッグの上に置く」という流れを教えられたのですが、それに従って受け取るということを繰り返しました。ただ、ある時に違和感を抱きました。

「これは何に対するお金なのだろう」

その時の違和感を覚えています。正直なところ、こんなお金のめぐり方でいいのか?と思いました。おばあちゃんに何に対してお金をめぐらせているのか聞いてみたいと思いつつも、なぜか聞いてはいけないとも思いました。そこに触れてしまうと、これまでの流れが破綻しそうだと思ったからです。それは、自分が生まれたお寺というものが、そういう「お布施」をいただいて成立しており、そこから頂いたお金から家計が成り立ち、さらには自分自身が食べることができているということを感じていたからかもしれません。そこに疑問を挟んでしまうと、自分の家計に影響が出てしまうのではないか?という恐れを感じたのではないか?とも思います。

また、別の点にも違和感を抱きました。お経を詠んで(法施:仏法をほどこすという意味があります)、お布施をいただく(逆にお檀家さんから、財施(金品や食べ物などをほどこす)ということが起こります。でも、そもそもお経を唱えるということがほどこしになっているのか?ということが謎でした。しかも、小学校3年生が唱えるお経はそもそもありがたいのか?というと、さらに謎です。さらには、お経を詠んで、お布施をいただくということが慣習化してしまっているということは、本来のお布施の意義としてどうなのか?ということを思います。慣習になっているということは、まずそれを「する」ということが全面に出ます。そこに「思い」が伴っているかどうかは別です。そうなると、思いが伴わないまま、お布施を差し出すということが続いていくことになるのですが、それはありなんでしょうか?

「対価」のようになってしまっているお布施についての疑問。さらにはもう一段、私にはもう一つひっかかっているものがあります。それが「生まれ」です。私はお寺に生まれたのですが、小さな頃から周りの人たちに「継ぐの?」「継いだほうがいいんでしょ」「継がなきゃいけないでしょ」と言われてきました。これは一般の家庭の方々でも「家を継ぐかどうか」という場面になって言われることかもしれません。家の継承の話は日本では頻出です。それが自分の家の場合、お寺の継承と家の継承という複合系です。似たようなもんです。

お寺に生まれて体験したことの一つは、やたらと「将来、継ぐんでしょ」と人生の方向性を諭され続けることです。そこに自分の意志がどうとか関係ありません。そういう声が自己紹介をするたびにひっきりなしにやってきます。親が何を発言するか、だけでなく、周りの関わりがある方々が無邪気に発言します。そういうものなので、それに対して怒るということはほとんどなくなりましたが、そういう状況にさらされ続ける人には共感しやすいです。

さて、ふと昨日友達と話していた時に、「はて、なぜ対価というものに着目しているんだろうか?」と思い、その時にピンときたのが、そもそもの「生まれ」を要因とした「すべき」ということに対して、ずっと違和感を抱いてきたということを思い出したのでした。

誰しも生まれる場所は選べません。親も選べません。命は受動的に始まります。この世に突然投げ込まれてしまう。お寺の文化も家庭の文化も選べません。そういう中でどのように人生の物語を被害者というマインドに陥らず、立ち上がっていくのか?ということが私にとっては重要な関心事でした。

これを「対価」という言葉で指していいのかわからないままにこの言葉を使いますが、私が気になり続けているのは、「生まれ」という、どうしようもないものを受け取った上で、それに強固に紐づけられた「対価めいたもの(つまりは、AだからBだよね、という強固なパターンの思考)」をほどくということにあるような気がしてきました。

ただ、社会、時代によって、思考パターンもそれぞれですし、私は嫌でしたが、「お寺を継ぐほうがいいよね」というコミュニケーションが発生し続けること、いまなお発生していることに対しては、「まぁ、発生するよね」くらいのものです。時代が変わると語られ方も変わるので、今の時代特有の感覚かもしれないし、ここ2000年くらい繰り返されてきたことかもしれません。

その思考パターン自体をただ否定しても何も始まらない。その「ゆるぎなさ」のようなものは、何をもってゆるぎなく、そして私たちはなぜその思考のパターンを採用し続けるのか?ということを探求していきたいと思いました。

一言でまとめると、「生まれへの対価性」を手放すと、どういうふうな世界が開けていくのかを探求したいということです。お布施の実験にどう反映されていくのかわかりませんが、ここからまた、トランジション(内面の変容)が起こっていくと思うので、楽しみです。

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