蟹。
最近、水槽で飼っている蟹をよく観察している。
親指くらいの大きさの、淡水で生活する蟹である。
一体コイツはどこから来たのかと聞けば、魚屋で売っていた川海老のパックに紛れ込んでいたのだという。
海老の死体の山に埋もれながら必死に生き延びていたところをこの店の店主に見つかって、まさに九死に一生を得たらしい。
はじめはもっと小さかったが、これでも既に2回、脱皮をして少し大きくなったんだそう。
そんな小さなコイツはたった1匹のくせに、身に余る大豪邸のような水槽を与えられ、快適空間で悠々自適な生活を送っている。
絵に描いたようなラッキーボーイである。
そんな蟹を観察しているうちに、ふと思ったことがある。
こいつはまるで俺だ。
またお前はいきなり何を言い出すのだと思うのも無理はない。
ただ、見れば見るほど、自分のように見えて仕方がなかったのである。
程よい隠れ家、大小の砂利に水草、エアー、そして餌。
文句無しの素敵な水槽を与えられているくせに、ふと気づくとこの蟹は、たびたび水を出て天井の裏にしがみついている。
魚屋のパック時代から比べたら充分すぎるほどいい暮らしをしているくせに、その場を抜け出そうともがいている。
もしくは、高いところに登るのが好きなのかもしれない。
どちらにせよ俺そっくりである。
学生の頃より収入は増え、美味しいものを食べて生活ができているくせに、金がないだの仕事がつまらないだの言っては転職を繰り返している。
そしてわざわざ高い金払って雪山へ行き、頂上まで登っている。
それだけではない。
ノコノコ隠れ家から出てきては、呑気に水槽を闊歩している。
かと思えば、人間の姿が見えると慌てて引っ込む。
店主が水槽を手入れしている時なんかは絶対に出てこない。
そのくせ、終わるとどこからともなく現れて
「全く...ひとの家を勝手に荒らしやがって‼︎」
とでも言わんばかりにあちこち忙しなく動き回って、草をつまんだり砂利を運んだり。
大口を叩くくせにビビりな所もそっくりである。
ハサミで苔をつまんでは口に運ぶところなんかは、タバコ吸ってた時の俺みたいだし、そういえばじゃんけんの時はよくチョキを出している気がする。
こうして見ていると意外と人間くさい部分があるように見える。
違うところなんて、中に美味い味噌が入って無いことと、前にも歩けるくらいのもんである。
だが、これこそが単純だが一番大事な違いだ。
俺はたしかに蟹みたいだ。だけど蟹じゃない。
蟹とおんなじように抜け出したとしても、抜け出した先で、前に進むことができる。
運良く拾われることを待たなくても、運良く家を与えてもらわなくても、自分の力でどうにかこうにかやっていくことができるのだ。
よく考えたら禁煙もしたし、チョキだけじゃなくてグーもパーも出せる。
嫌いな奴は殴ればいいし、大切なものは両手で抱えて離さないようにすることができる。
どうせ蟹なら蟹らしく、一皮剥けてさらに大人になってみようではないか。
あとがき。
バイト先に新たにやってきた蟹を観察してるうちに思いついた事を、純文学風オマージュで書いてみました。
近代文学が何を持って文学作品とされているか、なんてそんなことは全然分かってない僕ですが、まぁこういう身近な所から、自分を見つめ直すとか、人生において大切な事を知るとか、そういう事を教えてくれるものなんじゃないかなって思ってます。
いつも文章を書く時は書きたいエピソードが先に思いついて、結びをどうするかで悩んでいることが多いのですが、今回は珍しくオチが早い段階で思いついていました。
以上です。よしなに。
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