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ワークショップは手段だとしても、ワークショップしたい

無性に、ワークショップしたいし、ワークショップに参加したい。

アートにしたってスポーツにしたって、やる意味やる意義はもちろん色々な視点であるけれど、人間ってそんなことのために動いているんだろうか、と思う瞬間もある。

何かに心が動くとき、そこに理由なんか、本当にあるのだろうか。
すべて後付けのまやかしなのかもしれないと思う時がある。

WHYから始めることはよく聞く話だし、考え方として実践的で大いに有効だけど、そもそもそれが本当に根幹なら、WHYから始めよとことさら言わなくったって、人は最初からそこに行くのではないのかなぁ?

私は絵を描くのがとりわけ好きだけど、そこに本質的には理屈はない。
絵を見せて人の心が動くのが嬉しいというのもある。
自分の中にある何かを見つける喜びもある。
何もないところに意味が生まれてくる(ような勘違いをする)楽しさもある。

でも、それらはすべて正しいけど、すべてまがい物のような気もする。
そんなことのために描いていないような気もする。

描きたいのは、描きたいからだ。ただ描きたいからだ。
ワークショップも、それに近い。
場づくりしたい色々な思いは正しい、でもまがい物だ。
ワークショップしたいから、ワークショップしたいんだ。
どうしてもそれに言葉を与えるなら、「楽しい」からだ。

私は多分、『根源的能動性』になるべくいつもいつも触れたいのです。
自分が生きていると感じて、生きていたいんです。

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