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雑談も良いけど、沈黙を共有できるのも良い

私は、なんだかんだで、やはりものづくり志向の人間なのかもしれません。

だから、といってよいのか、そういうこととは関係なく、私個人がただそういう性格なのか、論理の紐づけに悩みますが、要するに私は、誰かと心地よい沈黙を共有できる瞬間が好きです。

そう感じる瞬間の、そこに流れる沈黙は、私にとってはとても能動的なコミュニケーションの一つだなと実感するのてす。

先日、ファシリテーターのあり方についてある方々と意見交換したとき、私はそこでの話の流れに違和感を覚えました。

ファシリテーターが、参加者のためではなく、自分の個人的な不安を払しょくしたいという動機から、参加者に安直にルールを課したがる、その姿勢に対して、自分の考えとは異なるな、と感じたのが違和感の一つ目の正体でした。

二つ目は、また別で。ファシリテーターのあり方としていかがなものか、という問題を、仮に一旦度外視したとしても残るもの。

つまり、沈黙の価値についての評価や捉える角度が少し一方的かつ一面的すぎませんか? という違和感。別の言い方をすれば、沈黙への敬意のなさというのか。

ファシリテーターが自分で話しにくい場を(たとえ無自覚だとしても)自分で作り出しておいて、発言してほしいです不安です、という自分の思いにばかり向いている。

それに対して、最初に感じる違和感は、順番がちょっと違うのでは? ということですけど、もう一つあるんですよね。

そもそも、その沈黙を積極的に必要としている、あるいは無意識に救われている人もその場にはいるかもしれない。話すというコミュニケーションを本当につぶさに捉えれば、話していない瞬間が間に挟まることも含めて、対話なのではないのかなと、私は思うのです。

沈黙も、むしろ時に雄弁でさえある。黙っていてくれる有り難さ。静かな時間を共有することも許してくれる懐広さ。それは、語られる言葉が大切であるのと同じように、大切な対話の一部なのです。

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