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複数のカメラと、スイッチャーが活躍する脳内へ

この話題の続きです。

ある物事の習得と習熟に、とても…というよりも、とてつもなく躓いている人がいました。そしてそれは、その人が自分の仕事に選んだことに対する物事だったので、対価に対して…という意味でシビアに考えれば、ずっとそのままではいけないことでした。でも、ずーっと脱することができなくて、苦しんているようでした。

そのことができない度に、その人はこういう言語化を強く繰り返していました。

〇〇が難しい! 難易度が高い!

何か、違和感を覚えだして、この違和感の正体は何だろうと考えてました。この人の二言目に出てくるこの言葉と、躓き続けていることの間に、何かがあるのではないか?

言葉だけ切り出して見てみても、よく原因がわかりません。というのは、この言葉を口にしていても、別にそのような引っ掛かりを覚えない人もいるからです。この言語化が単独で好ましくないとか、そういうことではない気がします。

でも、更に考えてわかりました。この人のこの言語化は、他のバリエーションが貧弱で、一辺倒だった。視点の、切り替えの頻度が極端に少ないのです。いわば一台の固定カメラだけで中継しているような感じ。私から見て難しい、難易度高い。それ自体はいい。ても延々そのアングルの映像だけが伝わってきます。

テレビ番組見てますと、報道番組のような生放送とか、スボーツ中継とかだと特にわかりやすいですが、複数のカメラで、ある場面が同時に色々なアングルから撮影されていて、適宜ほどよきタイミングで、視点が切り替わります。

それほど詳しくはないのですが、テレビの場合はスイッチャーさんという方がいて、視聴者に伝わりやすいように視点を切り替えているわけですよね。

その方の言語化には、そのスイッチャーさんが見える瞬間が少ないのです。少なくとも、その苦手だという物事に取り組んでいるときは。

だから、ご本人としては混乱して、焦って、パニックですとか、無理です、という言葉がすぐに出てくるけど、その間「う~ん」と考え込んでいる中で、良い意味での「試行錯誤」がほとんど起きていない。

難しいです、も、難易度高い! も、単独でこの言語化がダメとかではないのだけれど、そのカメラにだけ固定され続けているのは、物事の習得や習熟においては、どうもあまり効果的な映し方とは言えないらしい。

私から見たその物事は難しい。では隣のAさんから見たらどうなのか? それは絶対的に難しいのか?

仮に違いがあるとしたら、それは元々の絶対不変な能力の差によるのか? それとも、そういう面もあるにせよ、必ずしもそれだけではないのか? あるいは、その難しいという物事の立場に、つまり視点に切り替えたとき、そこに立ち向かう自分の姿はどう映るのか?

そういう切り替えが、あまりにも起きていない。

だから、脱することができていない。もちろん周りがその視点を補おうと色々と寄り添ってみたり、少しでも俯瞰の助けになるよう、切り分けて言語化する支援をしたりもするのだけど。

そんな、周囲からの働きかけに対しても、ある苦手意識のエリアを踏むと完全拒絶モードになってしまう。

ワークショップの学びとは、自分の中に、まだ知らなかった角度からの映像を増やし、つまり撮影カメラを増やし、自分の脳内のスイッチャーの仕事力を上げるものであるともいえる。そしてそれは、困難な物事に立ち向かうときに力になってくれる。とても大切なことなのだろうな、と思うのです。

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