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「怯え」という感受性を手に入れるには

昔、多分就職活動してたころのこと。
自己分析系のツール(テスト?)の結果「共感性が低い」と評価されたことがありました。

自分としてもその結果は全く意外ではなく。
「うーん。確かにそういうところあるな」
「『ふつう泣くよね』て時に、もらい泣きとか一切しない方だしな」
位に、淡々と事実として受け止めていました。

でも、それから何年後だろうか…かなり年月の経った頃のこと。
ある人から、とても意外な言葉をもらいました。

「しょーじぃって、何か、わからないけど、物凄く共感性が高いんだね」
「高すぎるのかもしれないね。それが、いいとか悪いとかではなくて」
「相手の痛みを、まるで乗り移ったみたいに、受け止める感覚があるよね」

それまで『自他ともに』一貫した評価のはずの自己像とは、真逆の内容。
色々な意味で、おや? あれ? という引っ掛かりを覚えました。

いや、私そういう風に言われたことないし。
むしろ低いと言われたことなら結構あるし。
そう相対的にみえるとしたら、例えば、実はあなたが鈍すぎだとか?

などと訝しんでみましたが、何だかそれももちょっと違うなと思って。

「共感性」「感受性」いう言葉のとらえ方が違うのかな?
それとも、年月の中で、そもそも自分いつの間にか変わってた?

考えてみましたが結論も出ず、さらに月日は流れて、今。

ある身近な人たちの行動原理が、どうしても共感できない場面が続いてまして。でも、そのことを深く深く考えてみると、彼ら彼女らの「怯え」を、私がさっぱり正しく捉えられていないかもしれない、と気づいて。

あ、やっぱり、凸凹なんだな、と。共感性を身につけたとかそういう事じゃなくて、人間は、私も含めて、一言で共感性があるのないのと言えないってだけだったのかもと。

だから今でも私は「共感性が低い」かつ「共感性が高い」。これは、同時に成立している。し得るものなんだと思います。

だから私は、その「怯え」に気づけない。

「怯え」という感受性は、「心理的安全性」に配慮したい場面で、繊細な観察眼を支えるものなのかもしれません。

私は、まだそれが全方位に発揮できていないということなのか…。

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