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熟達とは「それが当たり前でない」と知っている力の強さと、確かさ

最近、熟達するということについて、改めて考えさせられました。思わずまるでもの分かった風に、

熟達とは「それが当たり前でない」と知っている力の強さと、確かさ

とか、うっかり語ってしまった程に。😎🥴🤡

どうしてそんなふうに考え至ったのか、せめてもう少し言語化してから言葉にしようよ! とか、自分で思ったり。せめて後追いで考えてみたいけど、なんか、難しいですねえ。

ワークショップ的な取り組みをしているときに考えたことではなくて。仕事の場で、いわゆる後進というのか、その仕事においての客観的な熟練度や、経験値が、まだまだ駆け出しの行動を見て、思ったことです。

どう見ても出来すぎな若手の憂いを、斜め横から観察して

よく、ビジネスの後輩指導、部下指導の話題が出ると、愚痴、悩んでいる、どうすれば…という声がバーっと挙がりがち。

たとえばこんな感じの声とかですね。

コーチングだ、心理的安全性だ、なんだかんだ言いやがって、理屈は分かるんだ、説かれれればそうだなって思う、そうしたい、でも聞いてくれ! 今実際に私が抱えている現場の、部下の、後輩の現実は……

でも、私が直面したのはそうじゃない。 

  • 前向きで、周りに貢献したいというチームへの思いを持っていて。

  • 内省も深くて、突っ走るだけではなく考えることもちゃんとできる。やろうとする。

  • その人の経験年次というのか、段階を考えれば、一つ一つのスキルも低くない。

  • キャラクターもユニークで、自己開示力もあって、仕事以外の雑談とか、大切にしてて。

  • スキマのいわゆる見えない家事的なタスクも、拾いに行ってくれる。気づいてくれる。

  • とりあえずでも、周りや自分を信じて「やってみます!」と言える。そして、分からなければ相談しながら進められる。

そんな人です。いやもう…素晴らしくないですか?

悪いことが優先的にニュースになるから、「うちの現場に困った若手が…」的な話は、目につきやすいですが。

現実を見ると、ホロリとくるほどがんばってる人、どこにでもいっぱいいて。世の中すごい素敵じゃんってなりますよ。話題になりにくいだけ。

この若手さんも、そんな一人なのですね。

それでも、熟達者は境界を見極めて、ブレーキをかける

でも。ああ、これが、熟達という観点における「若さ」なのだな、という、惜しい行動が、それでも見られる場面はあるのです。

その多くは、いわゆる視野の問題か。全体最適の視点がまだ足りなくて、総合的に惜しい進め方を、良かれと思ってしてしまう。そして、このままだと、チョット危険だぞ、という状況をつくってしまいます。

もちろん、それは、通過点としてそれでまったく問題ないことです。人により多い少ない、個人差はあるかもしれませんが、いわゆる誰もが通る道。

チームであれば、熟達したメンバーが、それこそ「プロの仕事として、ここだけはなんとかせにゃ」というところには、何かしらのアクションを起こします。

「あえて、ここまでは失敗しても見守ろう」とか、そういうことも、もちろん考えるでしょう。が、他方で仕事にはお客さまがいますからね。

育成と綱引きで、プロとしての仕事の品質の防衛ラインを持っていて。そこだけは、躊躇なく守りに行くわけです。

そう、熟達者があえてでも止めに行くのは、教習所の教官が、危険な運転操作から守るためにブレーキ踏んだりハンドルを奪うのと同じこと。

理解できないわけではない、若手、……しかし……?

ただ、ビジネスの場面では。必ずしも、自動車の運転の場面ほど、その瞬間に事態の深刻度が伝わらないことも。そのことが、熟達者と若手の間に、一瞬溝をつくる瞬間がたしかにあります。

そして、意欲的で、貢献したいという思いも強い、とても善良な若手は、若さゆえに? 色々あって最後は少し憂えたりします。

何が危険だったのか、このまま進むとどうなるところだったのか? 今どきの現場の熟達者は、キチンと筋道立てて説明する人も多いです。

そう、ワルイ上司、やな感じの先輩の話のほうが、これまた声高に強く囁かれるけれど、こちらも構造は同じで。尊敬したくなるような方も実際にはたくさんいらっしゃるんだなぁ…。

若手の方も、それなりにちゃんと理解します。「たしかに、言われてみればそうですね…考えが、足りませんでした……」そんな言葉が続いたり。いっときは落ち込んだりもしますが、周りとの関係が悪くないので、チームでフォローすればまた立ち上がります。

メデタシメデタシに見えますね。なんて素敵な現場でしょう。ただ、大抵の場合、それでもしばらくは、「熟達者から見たら同じ原因」のミスを、繰り返します。

キチンと自分からふりかえって、次はこうしてみよう! って誓いを立てて、実際にやろうとする。そんな、夢のように良く出来た、羨ましくなるくらいの若手ですら、やはりそうなのです。

正統的周辺参加って、7文字で語られてしまうけど、平坦な景色であることは少ないですね。

心配しなくていいんだけど、メカニズムは気にかかる

結論から言うと、この若手は、心配しなくてもたぶん大丈夫です。そう思って斜め後ろから見ています。ふりかえりとカイゼンの意識が自分のものになっているから。

でも、不思議なものだよなとは思うのです。何で、次もやってしまうのか? その次も、やってしまうのか? しばらくは、やってしまうのか?

この、ものにするまでの試行錯誤のプロセス、あるいはタイムラグは、あるところからは縮まらないようにも見えます。そこには川が流れている。

そもそも熟達には、なぜノウハウや習慣を最大限にを駆使しても時間がかかるのでしょうか? 熟達者の脳を移し替えるかのように、一瞬でほぼ同じになったりはしないのか?

それはつまり、熟達とはなにか、という問いそのものです。

今の私にとっての、とりあえずの答え

そして、浮かんできた答えの輪郭がこれでした。

熟達とは「それが当たり前でない」と知っている力の強さと、確かさ

長々言語化した割に、一番肝心な、なんでこの答えなのかが、全然言語化できなかったじゃん…って自分でも思いますが、前段の整理も手強くで、長々しくなってしまったので、今日はここまで。

引き続き、自分の宿題にして、考えてみたいなあ。というか、なんとしても考えないとな…。

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