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「絵を描かないおともだち」が、私を「絵が好きな私」にした

そうとう昔の事ではあるけど。
幼稚園が一緒で、小学校は別の学校だった同学年の「おともだち」に中学で再会した。

「おともだち」というのは、大人が何故か同じ場所にいる子ども同士を、勝手にそう呼んでたなぁというくらいのことで、本当に「おともだち」だったのかどうかは知らない。でも、何かのご縁があって一時、同じ場所で時間を過ごした一人なのは確かだ。特に仲良くも、悪くもなかったんだろう。

しょーじぃは、よくわからないけど、ずっと絵を描いてたよね。
覚えてないけど、それだけ何だか覚えてる。

という意味のことを、再会してすぐに言われた(つまり、そんな距離感ということでもある…うーん、やっぱり「おともだち」って何かな?)。

何で絵を描くことにそこまで夢中になっていたかは知らないし、実は今でも何でなのかは本当に分からない。でも、夢中で絵を描いていた自覚はきちんとあった。

…ので、「ああー、そうだったんだろうなぁ」と納得した。
「え? 私そんなことしてたっけ?」とは思わなかった。

その時点の私も、隙を見ては絵ばかり描いていて。
そういう意味では変わっていなかったので、自我と矛盾はなかったというのもあるけど、それだけじゃなくて。

ずっと絵ばっかり描いてた自分を外から見たようなイメージを、幼稚園の時点で自分のどこかに持っていたような気がする。その姿を、その「おともだち」も覚えてたんだな。そんなに、印象に残ってたんだなと。

今にして思えば。
その俯瞰したような記憶を、子どもながらに意味のあるものとして、そこまで脳に刻んでくれたのは、描いていた私自身ではなくて、周りの「おともだち」だったのだ。

あの頃、誰も私と同じような熱量で、無言で黙々と絵を描き続けている「おともだち」はいなかった。どう気付いたかまではよく覚えていないけど、どこかで私はそれに気づいたんだと思う。自分だけが、ずっともくもく描いていると。他の「おともだち」はその時全然別のことをやっていると。

発達心理学で、他者の存在を理解するのが何歳でどうとか、色々と研究されているけど、実感として、幼稚園くらいになると時々自分を俯瞰するような映像の記憶が、結構残っている。自分の居た教室を、「おともだち」と一緒に遊んでいる自分の画像を、それも、写真を見た記憶とかですらなく、ところどころ覚えている。

もしあの時、自分の周りに誰も居なくても、私はもしかしたら絵をもくもくと描いていたのかもしれない。でも、「おともだち」が一人も居なかったら、それは自分にとってあたりまえで自然過ぎて、記憶に残すこともなかったんじゃないだろうか。夢中になることが当たり前すぎて、絵を描くのが好きなんだとも、思わなかったんじゃないだろうか。

周りには「何故か」そんな風には絵を描かない「おともだち」がたくさんいた。幼稚園の世界では、たまたまそこまで夢中で描いている人はいなかった。

だから、私は少しずつ俯瞰した絵を捉えだす脳の中で、夢中で絵を描いている私を見つけて覚えていたのだ。あの時、何かのご縁でたまたまそばにいて、全然絵を描かなかった、あるいは少ししか描かなかった「おともだち」のすべてが、私を「絵が好きな私」にした。

格別に仲が良い訳でも、悪かったわけでもない「おともだち」が。
今はほとんど疎遠で、どうなっているのかもそんなに知らない「おともだち」が、そうするつもりもなく、ただ少しずつ違ってそこにいただけで。

あれ? もしかして、一週まわって、そんなご縁があったということを「おともだち」と呼ぶのも、そう悪くもないのかな?

その頃の感覚は、良くも悪くも今よりはフラットに開けていたので、そんな風に映像として記憶できたけど、大人になるにつれてたくさんのバイアスがかかって、「おともだち」一つにも悩むようになる。

もう一度こういう気付きに心を開放するのが、ワークショップの意義かもしれない。

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