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そして「手法の暴走」を何度か目にした(2)

先日、遠い昔の、私自身の会議への取り組みを色々と思い出して、「何故か」会議が盛り上がった話を書きました。

実はこれは一回だけのエピソードではなく、少し時間をおいて何度か、会議を担当したら「何故か」盛り上がって驚かれた事案があったのですが。

毎回、少し気持ちの滅入るおまけが付いてきたんだよな…と、苦い記憶がよみがえりました。

KPTって、参加者を詰めるためにやるものじゃない

あまりにも、組織の会議が機能していなかったころ、そして多分KPT自体が今よりももう少し「出始め」というか「最初の? 流行始め」に近かったころ、KPT(けぷと)を提案してみたことがあります。

当初は、提案したというだけで、自分がファシリをやる予定ではなかったのですが、提案を受けて企画をしていた方が急きょ都合付かなくなり、提案した人間にほぼ前日に矢が飛んできました。

急きょ、グラレコの走りみたいな手順書を思い付きでワーッと作って、模造紙や大きい付箋をお願いして調達して、自分が半端に参加してしまうと、色々な意味で絶対機能しないと悟ったので、完全にファシリに徹する宣言をして。

複数のグループというか、ふりかえりチームに分けて。それぞれの状況を観察しながら行ったり来たりして、声掛けしたりして。

結果、参加した人からも結構、好感触な反応を頂いたりして。
それ自体は、至らぬところもあったけど、想像以上に「やってみてよかったなぁ」という結果になりました。

その後がよくなかった。

あるあるかもしれませんが、KPTはその成功体験の本質を理解されないまま、時々変な風に採用されるようになりました。いえ、実施している人は、どうやら至極真面目に実施しているつもり…らしいのですが。

残されていたKPTもどきのアウトプットを度々眺めているうちに、こんな事態を招いたのは、実は私なのかもしれないと、暗鬱とした思いに時に沈んでいったものです。

なんのためにふりかえりをするのか。
なんのためにKからふりかえるのか。
なんのためにグランドルールを設けるのか。
なんのためにファシリはそこにいるのか。

そんな考えのみじんも感じられないアウトプットがありました。
酷いときは参加者を同調圧力で詰めるような歪なKPTもどき。

これでは、逆効果。ただ、提案するだけじゃダメなんだ。
ただ、自分の主催会に結果を出すだけじゃ、不十分なんだ。
どんなに準備の様子を見せてもなお、本質をはき違える人もいるんだ。

この頃から、ただ自分が開催した会議をきちんと回すことだけでは、本当に責任を果たしたことにはならないのかも、と、モヤモヤ悩んでいた気がします。

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