贈与

7歳の長男、英語のアプリで貯めたポイントを、アフリカの子供への水の寄付に投じて、大変興奮していた。贈与には人を喜ばせる根源的な何かがあるのかもしれない。人を喜ばせる行為に、人は、行為者自身が喜ぶ。大人になると寄付に何かが引っかかる。寄付を求める人は、こっちを騙して金をせびっているのでは。与えられる側としては、ただで何かを与えてくるのは何か裏があるのでは。みたいに思う。前提に、純粋無垢な気持ちで何かを人に与えるべきというのがあり、また与えられた側は感謝して受け取り、与える側の意図を汲んで、意図のままに、与えられたものを使わなければいけない。そして与えられる側はなにかに困っているはずで、その解消、解決のために、人が何かを与えているはずである、という暗黙の想定がある。困っていないのに寄付を求めるのはいけないし、与えられたものを与えた側の意図、大抵は困っていることの解決のために使わないのは、流用であり、騙したに等しい。となる。

本来の贈与とはそういうものだろうか。人は、自身の存在を維持、発展させることを目的に行動するものであって、善行というのも、ひいては自己の存在を確たるものにする行為が、善行となる。スピノザによる善の定義、そして利己的遺伝子論などを思い起こすと、こうなる。贈与は純粋に利他的でないと行けないのか?利他的とは、他者の利となることを意図して、自己への見返りを求めないこと。先の善行の定義に照らせば、これは善行ではない。相互に与え合う社会が他を利して、ひいては自己を利する、という考え方なら合う。大人になると、実際に複雑な社会のシステムを理解しているので、単純に他者を利することで素直に喜べない。受けた側が実は困っておらず、金儲けがしたいだけだったとしても、それで生き永らえる人がおり、人間の発展につながればそれでいい、とはなかなか思えない。子供が理屈でそんなことを考えているとは思えない。とにかく、人が喜ぶといことに、純粋にアプリオリに喜びを感じるのだ。与える側と与えられる側の意図に食い違いがあるとは疑っておらず、従って何の邪魔もなく、人を喜ばせることに邪念なく喜んでいるのだろう。贈与における意図のズレを人は恐れており、その恐れが除かれれば、人が喜ぶことに、素直に喜びを感じることができるのだろう。これは、人の本性なのだ。

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