では「くりこみ不可能」な理論とは?

物質の階層性というのがある。原子があって、その下には原子核、さらに詳しく見るとクォークがあるというあれだ。この階層性は、物理学の基礎理論に書き込まれているのだろうか。それとも「自然に」こうなったのか。基礎理論には特徴的な長さを決める定数が含まれているか、という質問だと考えてもいい。その問いに対する答えはイエスでもありノーでもある。

まずはプランク定数というのがある。あれは量子という、波の取りうる最小エネルギーを与える単位のようなもので、ミクロの現象にはそれこそあらゆるところに現れる。例えば原子の大きさを与えるボーア半径というのがあるが、これは量子論を反映しているのでもちろんプランク定数(の2乗)に比例する。他にボーア半径を決めているのは電磁気力の強さをあらわす電荷、それに電子の質量がある。ほら、基礎理論にはこれらの定数が含まれている、と言えなくもない。電子の質量は基礎理論に入っている定数だと思えば。

現在の素粒子の標準模型によれば、電子の質量はヒッグス場によって作られていて、正しくはヒッグス場の真空期待値、それから電子とヒッグス場との結合定数(湯川結合と呼ばれる)の積で決まっている。そういう意味では、原子の大きさは「ヒッグス場の真空期待値」が決めていると言えなくもない。ただそれも、ヒッグス粒子の質量とヒッグス粒子の自己結合定数の積でできているので、ずっとさかのぼっていくとヒッグス粒子の質量に行き着く。このヒッグス粒子の質量こそが、素粒子標準模型の弱点であり、多くの人が気持ち悪いと思っている点なのだが、それはまたの機会にしよう。

結局のところ、電子の質量は基礎理論に書き込まれているのか。これだけでずいぶんややこしい話になってしまった。なぜこんなことにこだわっているかというと、理論に含まれる(質量のような)エネルギーのスケールを決めるような量は、「拡大しても変わらない」という理論の重要な性質を壊してしまうせいだ。電磁気力の理論は、電子の質量のスケールをまたいで性質が変わる。電子・陽電子対を生成できるエネルギーがあるかどうかということだ。そのエネルギーより上、電子の質量を無視できるぐらい高いエネルギーでは、量子電磁力学というくりこみ可能な理論がある。逆に対生成ができない低いエネルギーでは、その量子効果を無視できるような、あるいは非相対論的な(つまり普通の)量子力学に見えてくる。これらは同じ理論を別の領域で見ているだけの話なのだが、一見して全然別の理論に見える。

この低エネルギーでの非相対論的量子力学、これが「くりこみ不可能な理論」の一つの典型的な例だ。低エネルギーでの現象、それこそ水素原子のスペクトルなどを予言する分には非常にうまくいくのだが、いざ精度を上げるために量子効果を計算するといろんなところに発散がでてきて、理論のもともとあったパラメタに押し込めようとしても全然足りない。電子の質量の逆数での展開に無数の項があらわれて、何も予言できないという話になる。幸い、この場合は高いエネルギーのほうで使える(つまりより微視的な)理論を知っているので問題ないのだが。

こういう「くりこみ不可能」な理論は他のところにもあらわれる。有名な例は、弱い相互作用によって起こるベータ崩壊の理論。フェルミ相互作用として知られる、中性子を陽子、電子、ニュートリノの組に壊す相互作用は、くりこみ不可能で、量子効果を計算しようとすると余計な定数を導入する必要が出てきて、何も予言できなくなる。この問題は最終的にワインバーグ・サラム理論として解決された。より高いエネルギーに行けば別の理論があって、フェルミ相互作用は、W粒子という重い粒子の質量の逆数で展開したときの最初の項だったというわけだ。

ここに一つの教訓が導かれる。理論のなかに重い粒子の質量の逆数での展開に見えるような項があらわれたら、それは「くりこみ不可能」な理論であることを意味する。こういうのは、拡大してみると全然別の理論に見える典型的なものだ。逆に高いエネルギーに行けば、より基本的な理論があるのではないか、そういう期待をもたせてくれる。

素粒子の基礎理論にエネルギーを指定する定数が入っているのは気持ち悪い。そう感じるのは、それがより高いエネルギーでのより基礎的な理論の存在を示唆しているからだと言ってもいいだろう。(ただし、粒子の質量自体はくりこみ可能性だけからは禁止されない。素粒子の質量項は、自然界は右巻きと左巻きを区別するという別の事情で禁止される。)ちなみに、くりこみ不可能なことで悪名高い重力の理論(一般相対性理論)には、重力定数というのが入っていて、これはプランク質量というむやみに大きな質量の逆数(の2乗)だと解釈でき、やはり何かより基礎的な理論があると考えたくなる。それは超弦理論だろうか。未だに結論は出ていない。

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