CP対称性の破れ:いや、説明が悪い

前回はCP対称性の破れについて説明したつもりだったのだが、やはり中途半端になってしまった。どう読んでもこれで理解せよというのは無理な話だ。ただ、言い訳もさせてほしい。世界中どこを探してもCP対称性の破れ、あるいは小林益川理論に関してすっきりわかる説明など見つけたことがない。コンセプトが難しいわけではなく、数学も初等的なのだが、複雑すぎてどうもイメージがわきにくいのだ。それを承知でもう一度だけ試してみたい。さて、どうなるか。

すべての素粒子は、波だと思ったほうが実態に近い。空間の各点に複素数がはりついていて、その動きが運動方程式(シュレーディンガー方程式とか)にしたがって空間を伝わっていく。空間を伝わるだけでなく、時間がたつと波動関数は変化する。エネルギーの決まった状態ならば、そのエネルギーに応じて波動関数の複素位相が回転する。静止した粒子であってもこの時間発展は起こることに注意しよう。ただし、この粒子が見つかる確率は、波動関数の絶対値の2乗に比例するので、複素位相がどうなろうが関係ない。だから、このままでは時間発展は何も見えないことになる。静止しているのだからそれでいいわけだ。

反粒子というのがある。こちらは、時間を逆行する粒子、という言い方をすることもある通り、波動関数の時間発展が逆向きになる。つまり、時間による複素位相の回転が粒子とは逆向きになるわけだ。複素数の言葉では、これは単に粒子の波動関数の複素共役を取っていると見ることもできる。いずれにせよ、絶対値の2乗を取ると区別がつかないという事情は同じだ。

さて、粒子と反粒子が起こす反応で違うことが起こる可能性はどこにあるかというのが問題だ。質量、つまりエネルギーが同じだと正確に同じ速さで逆向きの複素位相回転が起こるだけだ。絶対値の2乗を見たら何も起こらない。これだけではだめで、もっと複雑な何かが必要だ。まず他の状態への遷移が起こるとしよう。

量子力学では、別の状態とは別の波動関数に相当する。遷移とは、ある波動関数から別の波動関数に乗り換えのことだ。乗り換えの際には、その反応に固有の「振幅」が関わってくる。これもある複素数になる。例えば、クォークが別のクォークに遷移する場合を考えよう。ボトム・クォークがアップ・クォークに遷移するときは、その場合に固有の遷移振幅をかけることになる。(他のややこしい因子を別にすると)これを小林益川行列要素という。粒子と反粒子では、この振幅は違いに複素共役の関係にある。これではどうだろうか。いや、だめだ。これでも粒子と反粒子で反応の違いは現れない。何しろ観測できるのは絶対値の2乗だけだから、複素共役では違いは起こらない。やれやれ、もっと複雑な何かが必要だ。

答えはこうなる。最初の状態から最後の状態に至る途中で、複数の状態を経由すること。かつ、それらは異なる小林益川行列要素のおかげで異なる複素位相をもつこと。例えば、ボトム・クォークが一度チャーム・クォークに遷移してからダウン・クォークに変わる。あるいはトップ・クォークに遷移してからダウン・クォークに変わる。結果は同じだが、途中経過が異なる。量子力学では、こういう波動関数の遷移は、すべて同時に起こる。したがって、振幅を足すことになる。

だいぶ複雑になってきた。さらに、ここにもう一つ条件が必要になる。これらの複数の途中経過は、小林益川行列以外の複素位相も違っていないといけない。これは、通常強い力による複雑な相互作用によって起こる。正確に計算することは難しいが、一つわかることがある。粒子と反粒子を取り替えても変わらないことだ。

複数の経路をもつ過程で、それらは異なるクォークの遷移のために別々の複素位相(小林益川行列由来)をもち、同時にもう一つの複素位相(強い相互作用由来)をもつ。複数の経路をたどる遷移振幅を足してみると、粒子と反粒子では、単なる複素共役だけでは説明できない違いがあらわれる。これが、粒子と反粒子の反応率の違い、つまりCP対称性の破れの正体だ。

説明をすればするほどややこしくなってしまった。伝わったのはCP対称性の破れはそもそも複雑な現象だということだけだったかもしれない。CP対称性の破れに関して覚えておくべきことは、小林益川行列によるクォーク間遷移にあらわれる複素位相、それに反応の量子性(波動関数の重ね合わせ)が鍵を握る現象だということだろう。


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