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『迷走王 ボーダー』(10/13)

 朝起きたら、めっきり冷え込んでいる。足が冷たくてひときわ痛む。今日から冬が始まったのではないか。

 狩撫麻礼、たなか亜希夫のマンガ『ボーダー』(アクションコミックス、全14巻)。
 この3日ほどかけて、読んだ。
 このマンガのことは、外山恒一『青いムーブメント』で知り、いつか読もうと買ってあったものをようやく読めた次第。

 どんな話か、というと、説明しづらい。要するに、「ボーダー」を名乗る男たちが、ボロいアパートでぶらぶらしながら、ときどき何億円という大金をつかみ、豪遊したり、コンサートを開いたりするが、結局ボロアパートに戻ってくる。そんな行き当たりばったりの展開に終始し、14巻の最終話でも、特に結末らしい結末がつけられることはない。
 序盤でRCサクセション「すべてはalright」、後半では初期のブルーハーツが唐突に登場し、その歌詞が引用されるのも、異様といえば異様だろう。主人公が偶然聴いたブルーハーツに魂をふるわされたことで、それまでのマンガの展開が急に一変してしまう。レゲエへの思い入れの強さといい、原作者、狩撫麻礼のパーソナリティがそのまま反映されているような、一種破天荒な作品。

 少し前に、このnoteでも「オールタイムマンガベスト5」を選んだ記憶があるが、もう少し早くこれを読んでいたら、『ボーダー』もランクインしていただろう。
 『ボーダー』のすばらしい点は、主人公たちが、「なんでもよく、どうでもいい存在」=ジャンクとして登場し、その事実から出発して、彼らなりのスタイルを作り上げていくところにある。
 それは、「ボーダー」だの、「あちら側/こちら側」だのという、ほとんど意味のないスローガンでしか説明されず、時代錯誤なマチズモ、あまりにも浅薄な紋切型、読んでいて恥ずかしくなるようなナルシシズムとしか見えない場合もあるが、何にせよ、自分たちの手製の「美学」を構築しようとする現在進行形の試みである。

 Wikipediaに書いてあったが、『ボーダー』連載中に、関川夏央、いしかわじゅんに対する揶揄が問題視されたという。単行本にはその痕跡がないのでわからないが、私は、関川夏央のマンガからも、未完成の状態でスタイルを作り出そうとする生々しい息吹を感じて感銘を受けてきた。『ボーダー』では私立探偵の生き方が批判されているが、私立探偵こそ、都会のジャンクの「スタイル」の象徴とされてきた。それがハードボイルドというジャンルであり、ハードボイルドとは、つねに失敗するダンディズムであると言えるだろう。

 さきに外山恒一の本のタイトルを挙げたが、私は浪人中に外山の書いたネット上の記事をほとんど全部読んだのではないかと思う。そこではじめて政治的、歴史的な意識を持って世の中を眺めることを知ったような気すらするのだが、外山から受けた影響の最も大きなものは、その政治的歴史的認識よりも、自分が「ドブネズミ」でしかないという感覚にほかならない。
 先ほど使った、「ジャンク」という言葉は絓秀実のそれ(『junkの逆襲』)だが、絓秀実の名前を知ったのも外山恒一のブログだった。絓のジャンクは、ベケット『モロイ』に由来すると書いてあった記憶があるが、ジャンクとは「資本主義のゴミ」を含意している。
 相対的には私の家庭は困窮しているとは言えないだろうが、体を壊して以来、この「私」の存在が如実に経済的物質的条件を反映したものであることが常に意識されるようになった。「ジャンク」も「資本主義批判」も、レトリックではなく、端的に現実の問題として、ある。

 『ボーダー』は、バブル期に書かれた作品なので、大金はあるのだが、あえて「貧乏」というスタイルを選択するというお話になっている。それがファンタジーとしての魅力を生んでいるわけだが、それから30年以上経ち、今では社会の条件が変わっている。
 『チェンソーマン』にも、このジャンク的感覚がよく描かれていて面白かった。

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