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『映画批評大全』(10/22の日記)

 昨晩は、久しぶりに熟睡することのできた一晩だった。ここ数日のことは、何度も、日記に書こうと思っては、どうも頭の中がまとまらず、書けずにいた。今朝(10/23)はなんとか、意味の通る言葉で、書けそうな気がする。
 書くべきでないことを書いてしまうかもしれないが、とりあえず書かないとわからないので書いてみる。

 10月16日(誕生日だった)あたりから、体の重苦しさが強くなり、それ以来、ずっとこの身体から一刻も早く解放されたいということしか考えられないようになってしまっていた。
 苦しくて一睡もできなかった長い夜に、夜中に友達と遊んだり、ひとりで出かけたりしていた過去の記憶をひとつひとつ思い出し、生きて、自由に動けることそのものの素晴らしさを思った。
 その回想には、「あのときはあんなに自由だったのに…」というような、現在の状況と引き比べての後悔や苛立ちのニュアンスは全くない。自分はあのときああいうふうにも行動できた(のに、その自由に気づいていなかった)ということを思っても、その事実が可笑しくて愛おしく感じられるばかり。僕は、自分の23年間の過去の行動を、そのまままるごと肯定できる。記憶にあらわれる、あらゆる人たちみんなが愛おしく、彼らがこれから生きていくことを考えると愉快でたまらない。心から彼らひとりひとりの幸福を祈りたくなる。
 こんなふうに言葉にしてみると、嘘を書いているようにしか見えないが、本気でそう思ったのである。
 私の人生に思い残すこと、不満な点はひとつもない。もしもう一度生まれ変わって、同じ人生が繰り返せるなら、ぜひ繰り返したい。
 ただ、避けたいことはひとつだけあって、今のこの肉体の苦痛。これだけは一刻も早く終わってほしい。
 矛盾するようだが、他のあらゆることは「肯定」してしまっても、これについては、歯を食いしばって神に祈るほかはない。

 私の病状を簡単に説明すると、お腹に大きな腫瘍ができ、それが日に日に大きくなって体を圧迫するので、寝ていても起きていても、常に体が重苦しく、動くのが億劫になり、痛みも伴う。ものを食べたり飲んだりすると、体の中身がパンパンなので、痛みと息苦しさが増す。トイレに立っていくのもやがて自力ではできなくなってしまった。
 モルヒネを強くすると、苦しみは軽くなるし、眠れれば、そのぶん時間が早く経ち、我慢していずに済む。ただ、筋力体力を衰えさせ、動けなくなることを促進していることにはなる。

 10/22。夜中からうとうとしたり目覚めたりの繰り返しで、眠りが浅いときは、重苦しさを紛らわすために、夢の中の自分が何かひとつの絵を高速で模写し続けるという、変なイメージに没頭することにしていた。そんな風に時間を過ごしていると、喉が渇いてきて、朝が明けて両親が起きてくるのが待ち遠しくなった。

 朝、飲み物は何を飲んだのか忘れてしまったが、そのあと、結局、体を起こして、ミネストローネと、チーズ一切れの朝食を取ったのを覚えている。
 やはり食べたあとは苦しくなる。
 しんどい状況は、『富士日記』を読んで気を紛らわせていた。
 『富士日記』については、前に、金井美恵子を引き合いに出して、「読むことそのものの快楽」と書いたり、ドラマティックな場面を引用したりしたが、それでは私が『富士日記』を読んで感じたことをうまく言えていないような気がする。
 先ほど、自分の人生をすべてそのまま肯定してしまったと書いたが、それはそれまでにずっと『富士日記』を読んでいたからではないかと思っているのである。『富士日記』は、生きることそのものを全的に肯定する作品なのだ。
 『富士日記を読む』(中公文庫)というファンブックみたいな本に、小川洋子が「私が死の床についたら『富士日記』を枕元に置いて読んでいたい」と空想して書いていたが、『富士日記』はまさにそれにふさわしい。
 本当はもっと具体的な批評をしたいのだが、どうも頭がぼーっとしてしまって、それができない。こんな言い方では『富士日記』を変に神秘化してしまっているようで、やっぱりしっくり来ないのだが、少なくとも、私個人の満たされたような気分は、ある程度『富士日記』を読んだことに由来しているのは確かだと思う。

 あと、前の日記に『貸本版 墓場鬼太郎』を読んでいると書いた記憶があるが、あの漫画も、この数日で、6冊読んだのだった。苦しみを紛らわす本としては、少し寂しいが、呑気で楽な雰囲気があって、良い読み物だったと思う。収録作の中では、「霧の中のジョニー」が印象的だった。

 この文章を書いている今、痛み止めが良く効いてきて、苦痛なくぼんやりと過ごせているせいもあって、昨日10/22の苦しかった時のことをうまく思い出せない。
 昨日は、ベッドからずっと動かずにいる私を心配した母が、トイレに連れていってくれたのだが、体を動かさず楽に時間をやり過ごすことばかり考えていた私にはそれが苦痛で、まるで赤ん坊に帰ったかのように母に対してむずかり、最終的に、「早くこの体から解放されたい」という、さっき書いたようなことを母に対して吐露してしまうという出来事があった。
 今、何が良いことで何が悪いことなのかよくわからなくなっているのだが、このときのことははっきり悪いことだったし、これからは、そういうことはすべきではないと書いておこう。

 昨日の出来事としては、それから、16時ころ、看護婦さんが来た。
 いつもの担当看護婦さんとは違う人で、注射針を変えるだけでなく、姿勢の楽なクッションの置き方をいろいろ指示してくれたり、お腹の膨らみを撫でてくれたりしたのだが、慣れないせいで、かえって気持ち悪くなってしまった。
 そのままいつもの姿勢に戻して、うとうとした。母に頼んで、見舞いに来てくれることになっていた友達(U、T、Yくん、Aさん)を駅まで迎えに行ってもらった。雨が降っていた。
 妹が猫のチョビを檻に入れ、オンライン授業を聴きながら、車がうちに着くまで、チョビをなだめていてくれていた。
 友達が来た。
 さっそく、誕生日プレゼントとして、『映画批評大全』と題された、立派な冊子を渡してくれた。
 このときの驚きと嬉しさは忘れられない。
 これは、私がフィルマークスというアプリに投稿していた映画のレビューを、一冊の本にまとめてくれたもの。友人たちからのコメントや、すてきなイラストまで付いている。
 もともと活字として残るものだと思わずに書いていたものなので、正直、こうして紙の上で見ると困ってしまうものもあるのだが、やはりこれだけ立派なかたちにまとまると嬉しさが勝つ。
 なにしろ、私自身が全部の過去を肯定してしまっているので、もう恥も外聞もなく、ひたすらうれしいのだった。
 それからも、友達と映画の話をしたり、昔珍スポットに行ったときの思い出を話したりして、楽しい時間を過ごした。
 あまりにも幸福になってしまい、みんなが帰ったあとは、すっかりいい気持ちで熟睡してしまった。
 そして、今日も、いまだに、痛み止めのおかげもあって、そのふわふわした幸福感が持続している。正直、せっかくのこの幸福感が崩れるのが怖くて、動かずにいるのだ。
 ただそういう後ろ向きの姿勢は、かえって良くないと思うので、今から思い切ってトイレに立ってみようかと思う。

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