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8/29の日記

夕方。
晴れているので、両親に、近所の緑地まで散歩に連れて行ってもらう。
車椅子に乗って、ベンチに並んで座って缶コーヒーを飲んでいる両親の姿を眺める。俺はこの2人に育てられたのか、と感慨にふける。そんなこと書いても、誰にも何も伝わらないだろうが……。

田中美津『明日は生きていないかも知れないという自由』を読む。
ウーマンリブは、私にとっては他人事である。他人事として尊重はするが、田中美津の本は、やはり若い男が読むべきものではないだろうとは思う。冷え症の対策なども、更年期の女性向けだ。
それでも私にとって、彼女の著書は読んですっと心に入り、活力を与えてくれる数少ない作家のひとりだ。名著『いのちの女たちへ』はじめ、ほとんどの本を読んでいる。
この本にも、小熊英二への批判など、痛快で元気の出る文章がたくさん収められている。小熊は田中美津の「私の解放」が消費社会迎合につながったとする。しかし、何という粗雑な議論だろう。現に、田中美津はウーマンリブが収束したあともさまざまな運動を続けているのだ(最近では、辺野古闘争にも参加している)。
田中美津の本に『かけがえのない、大したことのない私』という本がある。田中美津の「私」には「かけがえのなさ」と「大したことなさ」(=「たまたまの私」)という二つの極が同居している。アイデンティティポリティクスだけでは、運動は持続できない。
この矛盾する二つの「私」を抱えながら、「今」だけを前向きに生きていく田中美津の姿は、私のような病人にとってこの上なく魅力的だ。
私が最近使っている言葉でいえば、「どうでもよさ」と「どうでもよくなさ」を両立させる生き方である。まあ、その「どうでもよくなさ」の内実にもいろいろあるのだが……。
ただ、立場の違いはある。
私は、自分の生きるスタイルを作っていく上で、ジェンダーという歴史的な文脈を積極的に利用して良いのではないかと思っている。自分の父が「男らしく」なかったことを不満に感じている。「ただ生きているだけでよい」と肯定されても、それを素直に受け入れられないところがある。
男であれ女であれ、ある「役」を用意して、その虚実皮膜を生きるのでなくては、生きる意味がないのではないか。田中美津の文章が、人々に力を与えるのも、そこに「文体」があるからではないか。

どうも頭がぼやけてきて、うまくまとめられないので、この辺でやめておく。田中美津については、小熊は論外にしても、ちゃんとした読者による、まともな論考があるはずなので、そちらを参照してもらいたい。

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