感想:ヒヤマケンタロウの妊娠-思いがけず他者(おや)になる


男性が妊娠することがマイノリティだがだんだんと認知されてきている社会の話。ただ、実際には世間的には、男性妊娠自体への差別などが多く、主人公のヒヤマケンタロウもそうだったが、思いがけない妊娠によって、自分自身が「他者になる」ことによって、色んなものの見え方が全く変わる。それがついには世の中の考え方さえも変えていくことになる…というのが話のあらすじである。

男性は妊娠するということが出来ない。妊婦という経験は、疑似体験などはワークショップなどがあるにせよ、どうしようもなく遠いものである。

Wikipediaによれば…公正さとは、入れ替え可能性だと、ジョン・ロールズはいった。誰もが、自分自身が他者になってしまうという反実仮想。それはまさしくこのドラマで、ヒヤマケンタロウ(と私たち)が、考えさせれることなのである。

現実には、子宮移植自体は、2014年にスウェーデンで実施されている。まだ遺伝的な女性しか認められていない。ただ、トランスジェンダーの広がりからも今後認められるようになることはありうるだろう。このドラマの中のように、思いがけず妊娠することはなくても、選択的に妊娠することはありうる世の中なのである。

同じく、男性が妊娠する創作として、村田沙耶香の『消滅世界』がある。夫婦間のセックスがタブー視され、みんなで子どもを育てるという世界を描いた。

ここでは、生殖と性欲の問題すらも分離されており、動物と人間という問題からもさらに進展して、生物と動物という問題にまで推し進めていると言えなくもないだろう。そうなると、もはや家族そのものですら、別の概念へと変形されてしまう。

彼女は、別の作品の『殺人出産』の中で、死刑の代わりに産刑という子どもを産み続けるという罰を与えられるという物語も書いている。生殖の自由、選択の問題、このヒヤマケンタロウの妊娠の中でも大きなテーマとしてある。中絶の問題である。 

ヒヤマケンタロウは、最初は中絶を考えていた。アメリカでは中絶の問題が取りざたされているが、様々な事情で、産まないという選択は、非常に複雑な問題を抱えている。反出生主義などの問題も近頃はどうなったか知らないが。

ドラマでも語られていたが、子どもが生まれて思うことは、月並みだが、想像以上に大変である。子どもを育てるということは、常に思いがけないことの連続である。私は、思い通りではなく、思いがけないことを経験することで、多分人は親になるのだろうと考えている。

ただ、このドラマを見て、妊娠ですらも、人工子宮やデザイナーベイビーのようなもので、「思いどおり」になってしまうとするならば、人はどうやって親になるのだろうとふと思った。

子どもはいつの時代も、親の思い通りにいかないものだと楽観的にいられればいいのだが。

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