見出し画像

シン・声幽ネットワーク論(1) -90年代に取り憑かれた林原めぐみ リナ・インバースと綾波レイについて-

「序」

注意事項;この小論は、『シン・エヴァンゲリオン』のネタバレを含みます。

声優について、もう一度考えてみようと思う。

私は昨年に「声幽ネットワーク論」という論考を書いた。構想から完成までにはかなりの年月を要したが、一応の完成を迎えた。

約8万字にもなるが、その問いは非常にシンプルだ。

人間は人をまるでキャラクターのように愛することができる一方で、虚構のキャラクターをリアルなものとして愛してしまえることができる。その謎について-つまりは愛の問題について論じた。

具体的な結論については、下記の記事を参考にしていただきたい。

だが、『シン・エヴァンゲリオン』(以下『シン・エヴァ』)の劇場版を見たとき、改めてその論考を書き加えなければいけないと感じた。

『シン・声幽ネットワーク論』とそれを名付けようと思う。

さて、そろそろこいつ何言っているだろうと思っている皆さんは、ちゃんとした理性の持ち主だ。安心して欲しい。

だが、こういうテンションになってしまうほど、『シン・エヴァ』はすごい作品だった。誰がなんといおうとベスト・オブ・ベストだった。

その熱量が冷めやらぬまま書いているので、事実として間違ったこともあるかもしれないが、ご了承いただきたい。

前置きが長くなってしまった。

『シン・声幽ネットワーク論』の世界へようこそ。

『シン・エヴァ』以前と以後の林原めぐみ

早速だが、90年代のアニメは、一言で言うならば林原めぐみの時代であった。(そこにはあえて過言ではないと付け加えるべきだ)それほどまでに林原めぐみの存在は大きい。

Wikipediaにある林原めぐみの代表作と役を確認していただくだけでもそれはお分かりいただけるだろう。林原めぐみは第三次声優ブームの立役者であり、今で言う「声優アーティスト」を確立した人物であるとともに、多くの若手・中堅声優の憧れでもあった。「林原めぐみにあこがれて声優になった」という言葉は、ある意味一つの決り文句のような印象すら受けるほどに。

林原めぐみを抜きにして、90年代以降のアニメを語ることはできないだろう。

声優という存在は、あくまでもアニメのキャラクターを演じる人である。今のように、声優が、一つの固有名として認知されるようになったのはつい最近のことだ。林原めぐみの存在がなければ、いまの状況はなかったことだろう。

だからまず、林原めぐみについて語ろうと思う。

私はかつて村上春樹がそうしたように、さらに宇野常寛がそうしたように、私もまずノートの中央に一本の線を引こうと思う。右側には、『シン・エヴァ』以前の林原めぐみを正しく理解するために。左側には、『シン・エヴァ』の林原めぐみを考えることで、今を生きる私達、あるいは林原めぐみという声優、あるいは綾波レイというキャラクターについて考えていきたい。

それは、庵野秀明が名付けた「エヴァの呪縛」。まだ終わっていない-正確に言えば繰り返されている90年代について考えるということだ。

どういうことか。具体的に見ていこう。

歳を取らないキャラクター・歳を取る声優とオタク

『エヴァ』のテレビシリーズの公開は、95年の10月だった。今は2021年である。4半世紀以上の月日を経て『エヴァ』は一つの終わりを迎えた。まずはそのことに感動すべきだろう。

私が林原めぐみという声優を「認識」したのは、まさしくその頃だ。だが、当時小学生だった私は『エヴァ』が怖くて見れなかった。一方でその頃『らんま1・2』や『うる星やつら』が好きや高橋留美子作品などをよく見ていた。

その中でもっともはまったのは『スレイヤーズ!』だった。主人公のリナ・インバースが唱える詠唱を何度も何度もVHSを繰り返し、書き出し、暗記していた。

私のオタク的な原風景は、『スレイヤーズ』だ。だからこそ、林原めぐみという声優はある意味で神のような存在でもある。

あまり知られていないことだが、その『スレイヤーズ!』もまた富士見ファンタジア文庫の創刊30周年ということで、続編が出版された。

アテッサの邂逅はまだアニメ化はされていないが、ソーシャルゲームのコラボなどを含めると、驚くべきことに、林原めぐみはリナ・インバースと綾波レイという2人のキャラクターを25年以上も演じ続けていることになる。しかもそのキャラクターの性質は全くの真逆である。(リナは傍若無人な性格の持ち主として有名だ)

もちろん、声優である林原めぐみはその間に年齢を重ねている。それはオタクである私も当然である。だが、キャラクターである綾波レイとリナ・インバースは歳を取らない。

かつて、伊藤剛や大塚英志は、そういったキャラクターの「死なない身体」の問題について論じていたが、現代のアニメキャラクターは、物語がたとえ完結していたとしても、ソーシャルゲームなどのメディアミックス・コラボという消費社会の論理によって、永遠の輪廻転生を繰り返し、再生産され続ける。

『シン・エヴァ』は、まさしくその不気味さにまさに意識的な作品だった。どういうことか。

綾波レイの成仏

『シン・エヴァ』において誰しもが驚くのが、「第三村」のシーンだろう。2時間超えの映画の中でも、とりわけ異様なまでの尺をとって丁寧に描かれていた。

また別の記事で述べる予定だが、あれは明らかにジブリを表象している。

ここで重要なのは、エヴァのパイロットたちは、「エヴァの呪縛」により年をとらない設定になっていることに対して、それ以外の一般人は順調に年をとっているということだ。これは明らかにアニメキャラクターとオタクのモチーフになっている。庵野秀明が好む物語外部へと遡行するというメタ的なロジックになっている。

だが、旧劇場版の『EOE』の頃と違い、突き放すような描写はなかった。庵野秀明自身の経験によるものが大きい。

宮崎駿氏に頼まれた声の仕事がアニメ制作へのしがみつき行為として機能した事や、友人らが僕のアニメファンの源になっていた作品の新作をその時期に作っていてくれた御蔭で、アニメーションから心が離れずにすみました。

綾波レイ(初期ロット)は、この第3村で農業(仕事)をし、赤ちゃんと関わることによって、人間としての感情を知っていくことになる。そして、うつ状態になっていたシンジにも心を通わせることができるようになったとき、「成仏」してしまうというあのシーンには、多くの人が涙したはずだ。

あそこのシーンは実は、一種の反転現象であったのではないかと私は考える。どういうことか。

つまり、通常は、オタクにとって、アニメは癒やし、宇野常寛のいう「安全に痛い」ようなものとして享受される。そこはたしかにそういった側面もあるし、私自身も「癒やされたい」と思ってアニメを見る側面は否定できない。

ただ、あそこで行われていたのはその逆だ。つまり、成長したオタクたちによって、アニメキャラクターが癒やされ、そこで多くの感情を育むことができ、だからこそ成仏することができた。

そしてまた、林原めぐみという声優も終わらない90年代、つまり綾波レイという不気味なものキャラクター(幽霊)から卒業できた。

庵野秀明は、エヴァの呪縛によって死ぬことのできないキャラクター=幽霊を成仏させるために、この作品を作ったと言えるのだ。

エヴァという90年代の幽霊、終わらない日常(宮台真司)を終わらせること。それは、幽霊を生み出した庵野秀明にしかできないことだった。そして、それは見事にやり切ったといえるだろう。

以上がとりあえずのこの文章の結びだが、まだまだ書ききれないことが多い。

以下に構想している見出しだけ載せておく。少しづつ書いていくつもりだ。

2)母になることと母であること 月野うさぎと葛城ミサトについて

3)「庵野秀明」の呪縛(からの解放) 第三村とジブリ

4)シン・声幽ネットワーク論 2人のシンジ

補論:ラスボスとしての坂本真綾 イスカリオテのマリア

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?