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アート論×行政論として考える鳥取県ウォーホル作品「3億円」問題

 鳥取県が新しく開館する県立美術館に展示する作品を蒐集するなかで、アンディ・ウォーホルのブリロという“ただの箱“を3億円で購入したことが物議をかもしているらしい。

 県民からは「憤りに近いものを感じていると述べさせていただきます」 「ウォーホルを知らない人が多いというのは鳥取県が美術振興をサボってきたツケだと思います」などなど、様々な意見が飛び交っているそうだ。

 個人的な意見としては「別にいいんじゃない?」程度なんだけど、住民の意見を見ているとこれぞまさに現代アート論wと思われるものが散見され、興味深いので仕事の気分転換も兼ねて私見を述べていこうと思う。

 論点を整理すると、

①果たして3億円の価値があるのか
②1個ではダメだったのか(鳥取県はブリロの箱を5個購入)
③公費の支出として相応しいか

 おおよそこの3点であるように思われる。

①果たして三億円の価値があるのか


 これはまぁ、本当にある意味ごもっともな意見だと思う。

 ここで現代アート作品の価値を「a.アート的な価値」と「b.財産的な価値」に分けるとして、3億という価額として評価できるかどうかを考えたときには後者の「b.財産的な価値」において検証することになるだろう。

 現代アートの財産的な価値は作家と中売人(画商とか)、そして買い手が形成するいわゆるアートワールドという狭い世界において、どういう値段でやり取りされたか、言ってしまえばオークションの履歴とかである程度相場は決まってくる。
 
 今回鳥取県が購入した箱(『ブリロの箱』)の作者はウォーホルということで、既に名声を確立した作家の作品なので、きちんと専門家が入って過去・現在の取引額を参照しているならば、3億という価額の妥当性はまぁ高いんじゃないかなと思う。

②1個ではダメだったのか

 この市民の意見に対して鳥取県の意見が「1個では意味がない」として対立しているのはおもしろいと思う。

 1個で意味があるかないか、この議論ではまさに、先述した「a.アート的な価値」に関する是非が問われている。

 ウォーホルの箱(『ブリロの箱』)は一見するとただの段ボールで、全然高そうに見えない。これは当然、市販の便器にサインをするのみで作品としてしまったデュシャンの『泉』的な方法論を受け継いでいるとみるべきだろう。しかし、議論の煙の立ち方をみると住民の多くはそんなことは知らないようだ。まぁ、それは仕方がない。

 さて、このウォーホルの箱は、大量生産・大量消費社会を揶揄するために作られたということで、鳥取県はそうした「a.アート的な価値」を鑑みると1個では意味(価値)がないと主張しているようだ。

 確かに、1個だけでは大量生産・大量消費という概念を射程に含むのは難しくなる。逆を言えば、同じ箱(作品・商品)がたくさんあるからこそ大量性を表現できるということである。

 もう一つ係属した議論になっているのは、そのうちの1個のみがウォーホルのオリジナル作品であり、他の4個はウォーホルが許可した人間による複製であるということであり、ウォーホルのオリジナル以外に価値を認めることが可能かどうかという議論である。

 これに関しては、可能であると思う。

 何故なら、ウォーホルの複製の許可とは、ブリロという作品に与えられた趣旨の実践を予定すること、つまり大量生産・大量消費社会が内在するリプロダクト(ex.1つの商品が大量に複製される)という性質の表現を念頭においたものだと考えられるからである。

 よって、確かに1個だけでは価値がなく、購入されたもののほとんどが複製であることにもブリロという作品が指摘する批評性、「a.アート的な価値」を担保するためには意味のある蒐集行為であるとする鳥取県の主張は合点がいく。

③公費の支出として相応しいか

 これはもう、外野がどうこういうことでもなく、地方自治体で闊達な意見を交わして判断するべきだと思うが、興味深かったのは7000万以下の動産の購入は市(県?)議会での審議が不要という条例があるらしいということ。

 今回はその条例の間をついて、ブリロを1個(各7000万以下)ずつ購入することで、ある意味しれっと蒐集したらしい。それが事後に発覚して騒ぎになっているという格好である。

 確かに、1個では意味がないのであれば5個買うことが必要かもしれないが、あくまで5個でひとつの作品であると主張するならば、結局達せられる目的は5個それぞれ個別にあるわけではないのだから、予算の計上の仕方としては3億円(ひとつの作品の購入費)として合算で計上すべきだったのではないか、という切り口は住民の主張としては理由があるようにみえる。

 一方で、先ほど②で論じたように、あくまでブリロは大量消費・大量生産を表現することにアート的な価値があるのだとすれば、確かに1個をたくさん集めること、もしくはそのような形(1個という単位)でリプロダクトされたものも含めて流通することに意味があるともいえる。

 つまり、今回の鳥取県の『ブリロ』購入における公費の支出の仕方としての相応しさと、『ブリロ』という作品の価値の是非は行政論とアート論を不可分なものにしてしまっている。

 そしてこの議論の最大の愉しみ方は、このような流通や売買のされ方までも、この作品がその正面かつ両面で担保するアート・プロダクトという二つの価値の淡いに一石を投じるウォーホルの企図のうちの一つだったのだろうか、と想像してみることである。

 実際のところ、この箱たち(ブリロ)がどのような条件で売買されたかは知る由もないが、住民たちのさまざまな意見を聞いていると「いいねぇ、アートやってんなぁw」という一種の洒落を感じざるを得ない。

 こうした議論を経て新たな美術館が誕生するというのも、どこか小気味いい。

 もしこの鳥取県立美術館?が開業したら是非足を運んで、今回の騒動も織り込んだ上で『ブリロ』を鑑賞してみたいと思った。

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