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宝塚月組公演『今夜、ロマンス劇場で』原作比較レビュー

先日、千穐楽前日に月組の『今夜、ロマンス劇場で』を観劇してきたのでそのレビューを書いていこうと思います。

結論から言うとめちゃくちゃ良かったですね、ラストシーンは涙でオペラグラスが見えない笑

宝塚、たまに泣いちゃいますけど、「泣いちゃったなぁ」という実感が伴って泣いたのは早霧さんの『星逢い一夜』だったかもしれません。

役者の演技面も月城かなとの2枚目健司、海乃美月の令和製オードリー・ヘップバーンかと思わせるようなヒロイン美雪、鳳月杏の大俳優役の快演、専科顔負けの光月るうの元館長役(『グランドホテル』美弥るりかのオットーを彷彿させる佇まい!)、暁千星の陽気なトート?w、風間柚乃の清々しい同僚役、良かった点を思い返せば枚挙にいとまがないレベルです。

特に海乃美月の演技力、表現力には圧倒されました。

決してぐいぐい前に出てくるタイプではないものの、美雪としての心の機微やその変遷、感情が乗った歌唱などは鳥肌物で、彼女の見事な演技を通してドラマツルギーが作品全体に敷衍されていたと思います。

そして今回は小柳先生の脚本・演出が神。神としかいいようがない…。

最小限の変更で大幅にドラマに厚みが増すとともに、宝塚作品として『今夜、ロマンス劇場で』を演る意味も含め、作品が大幅にアップデートされていたと感じました。

今回は原作比較レビューに的を絞って、脚本・演出面について書いていきたいと思います。

もう終幕したのでネタバレ有りです。

①劇場そのものが「ロマンス劇場」へ

まず、原作と宝塚版の大きな違いは物語の進行の仕方ですね。

原作では病室にいる健司が自ら執筆した未完の映画脚本をナースに語りだすことで物語がスタートしますが、宝塚版ではナースが健司の脚本をこっそり読むことからはじまります。

この時点で宝塚版は主観がちょっとずらされていますね。

まだ自身のシナリオの中を生きている健司の自分語りではなく、あくまで第三者を通して物語が立ち上がっていく構造です。

これはエンディングでも大きな差異が生まれてきます。

あえて「現在の健司」を最後まで出さないことで伏線を回収するタイミングを終盤に絞ることができ、それまでの物語の神秘性も担保されますし、第三者(途中まではナース、終盤ではその手を放れ観客)を通して物語が進行することで、「健司と美雪の物語」に収れんしない奥行き、没入感がぐっと出ています。

そもそもが、何度も何度も劇場に通うけれど触れられないロマンス、その美しさと儚さはまさに宝塚です。小柳先生がこの作品を「宝塚向き」と語った理由もよくわかります。

そしてあのプロジェクションマッピングを介したラストシーンの演出も、物語という虚構と現実がクロスする瞬間、私たちがあの舞踏会に招待されたような没入感に一役買っています。

ここで映画と演劇の違いも視野に入れた視点の”ずらし”が効いてきます。

よく舞台は観客と作るもの、また舞台は生き物ともいいますね。

宝塚版『今夜、ロマンス劇場で』は物語を語る主客とそれを見る客体を巧妙にずらし、同一化することで、「健司と美雪の物語」という、本来スクリーンの中では完結しえない物語を生き物として扱うことに成功していのです。

そこで私たちはあたかも健司のように、物語という虚構と現実の狭間で生きることができるのであり、私たち観客そのものが物語を補完することができるのです。

つまり、私たちの目の前で生まれ、終わっていくこの物語、そして劇場というこの場所性そのものが、まさにロマンス劇場なのです。

この映画から演劇へ作品を換骨奪胎するさじ加減、超鳥肌物でした。

②美雪のセリフ変更

小柳先生は、今回物語にはほとんど手を加えない、と言っていましたが、かなり重要なポイントを変えていたように思います。

まず、健司と美雪が病室で最後に手を取り合うシーンのセリフですが、原作では最後まで美雪は健司を「おまえ」と呼び、何十年と時を経ても変わらない美雪っぷりをアピールしていました。

これは美雪は物語の中の存在で、齢を取らないという設定を鑑みれば間違いではないのですが、どう考えたって何十年も寄り添った夫婦の雰囲気じゃないんですよね。原作でも綾瀬はるかの演技に大きな違和感を覚えたポイントです。

宝塚版では美雪は最後に健司の事を「あなた」と呼び、健司の「見つけてくれてありがとう」というセリフに「あなたも私を見つけてくれてありがとう」というセリフ変更が行われています。

この部分、海乃美月の演技力も相まってかなり情緒豊かなシーンになっていました。月城かなとの老いた健司の受け方も含めてパーフェクトだったと思います。かなり息が噛み合っていましたね。

また、原作では健司に触れた美雪が満足気に健司に寄り掛かるシーンがだらだらと続くのですが、宝塚版は「こんなに温かったのね」というセリフで暗転。

これは完全に改良!!!!!

だって触ったら消えちゃう設定なんだから、だらだらと接触してたらその儚い設定も意味がないじゃないですか。思い出して泣けてきた…。

③館長の過去設定の変更

ロマンス劇場の館長はかつては健司と美雪のような恋をした人である、という設定は同じなのですが、原作版で館長の相手方はいつの間にか姿を現さなくなっていた、という尻切れトンボ設定です。

これは美雪が現実で健司と生きていく困難さを感じ、家出したストーリーの補強となっているのですが、宝塚版ではキスしてしまったから、触れてしまったから別れてしまったという設定になっています。

宝塚版はこの設定とシーンを織り込むことによって、健司と美雪の悲しい末路予見させる仕様になっており、物語にぐっと緊張感が増します。

また、館長がその過去、つまりスクリーンの恋人に触れるという禁忌をどう受け止め生きているのか、彼の内に秘められた寂しさと一瞬の幸福が言葉では語りきれないロマンスとして提示されることで、館長のキャラと物語がより一層深いものになっています。

それに加え、鳳月杏の「下を見るな、男なら未来を見ろ」「下を見ていると今しか見れない」というセリフもリンクされ、原作以上の意味を帯び始めます。

何故なら光月るう演じる館長は、寂寥の念をぼやきながらとぼとぼ下を見て歩いている人です。

つまり、未来を向こうとしている健司を見た時、己の過去に思いを巡らす館長はかつての恋人と未来を見る事ができなかったという後悔と共に健司を送り出す人物にもなるんですよね。

ここで原作の「現在」「未来」という時間軸に「過去」が加わる事で、フィルムという閉じ込められたその瞬間=過去を「見つける」という今作のテーマもいよいよ円熟味を帯びてきます。

④ラストシーン、助監督から王子になった健司

物語の世界に美雪と還っていく健司。

原作でこのシーン、健司は助監督の衣装を着ていますが、宝塚版では月城かなとがビシッとドレスでキメています。

宝塚なんだから当たり前ではあるんですが、そもそも原作で美雪が物語の世界を脱走するのは隣国の王子とのパーティー前夜でした。

だったら王子っぽい服が妥当だろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおそもそも助監督の服で締めてる方がおかしいやろおおおおおおおおセンスねえかよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!

そもそも原作、申し訳ないですけど滅茶苦茶つまらんのですよね。

このシーンのBGMも原作だと「超大円団」っぽいじゃじゃーん!って曲なんですが、宝塚版はあえてオープニングで使われている舞踏会のテーマで、それがオケの演奏で絶妙に切なさを醸し出していてめっちゃ神なんですよね。

100%そっちの方がセンスあると思いました。

美雪の映画の中のオープニング曲を使う&そこに健司が入り込むことで、物語が無限の繰り返しから一歩前進したことになりますし、それは健司のシナリオが美雪の映画を改作したということにもなります。

絶対そっちの方がいい…。

小柳先生、本当にありがとうごいました!

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