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無名のドールたちからの手紙、そして「あい」の意味について—『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』解説

 ※本稿は2020年に執筆したものの、長文・ネタバレ前提になったために非公開にしていました。しかし、2021年に発売されたBDを見て大変感動したので公開することにします。文字ばっかりです。

 本日公開の『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』、早速観てきました。

 そもそもこの『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は緻密な芝居やスタティックな演出手法においてTVシリーズの時から頭ひとつ抜けた作品でしたが、今回はとんでもなく感動しました。テレビシリーズでは微塵も涙腺に来なかったんですが…悔しいけど泣いた…。

 そして本作はついに、元来テーマとしていたであろう「あいしてる」、つまり愛する事のその本質を、「かなしみ」の両義性を用いて、正面からではなくその裏面から見事に描き切った秀作だと思います。

 裏面と言ったのは、本作はアニメ・漫画におけるポップなラブストーリーの王道から外れ、積極的に静的で悲壮な愛のあり方を描いていたと思うからです。

 それは同時に哀しみや孤独というものを分有する愛の本質を「生」や「死」、もしくは存在の不在という我々が抱える根元的な不安の中で描くことでもありました。

 同時に、本作は例の放火事件の後に公開され、完結したシリーズ作であることも無視できません。

 この記事ではそんな本作が描いた「あいしてる」とは何なのか、ネタバレを含みながら考察していこうと思います。

序ー『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の成り立ち

 さて、本作『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』(以下、本作)は紛れもない1つの事実として、京都アニメーションの多くのスタッフにとっての「遺作」になってしまっています。
 それは説明するまでもないかもしれませんが、昨年7月に起きた「京アニ放火事件」という悲しい事件によって、多くの制作スタッフが志半ばで亡くなっているからです。
 元来、このシリーズは主人公のヴァイオレットが手紙の代筆を通して様々な感情を獲得していく物語でした。
 その中で彼女は幾度となく「遺書」を代筆しています。
 かつて自分自身が兵士として人々の命を奪ってきた彼女は、死んでいく者の意志を代筆するドールという仕事を通して精神面に大きな影響を受けて行きます。
 つまり、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という作品群は手紙という媒体を通した人々の想いの交歓をテーマとして扱いつつも、その中でも特に「死者の想いを生者に伝える」というサブテーマが前面に出ていた作品であると言えるでしょう。
 今回、その続編である本作が生き残ったスタッフにより日の目を見たということは、ヴァイオレットがその手紙を多くの人に届けたように、その営み自体が『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という物語の扱うテーマを完遂させる事を意味しているように思います。
 そうしたメタ的なテーマを孕んでしまった本作が最後に提示したメッセージが「あいしてる」という5文字のひらがなでした。
 今回は、まずは素直に本作の構成を検討しながら、そのひらがな5文字の意味を紐解いていけたらいいなと思います。

「手紙」についてー「生」に向かう「遺書」と宛先のない「海の讃歌」

 さて、本シリーズのサブテーマが「死者の想いを伝える事」であると言いましたが、本作(劇場版)において「手紙」の役割はいよいよその遺書性を増したと言えます。
 作中で登場する「手紙」はヴァイオレットがギルに送った1通を除き、その全てが依頼人の死後に送られる手紙ー「遺書」でした。そして物語の冒頭も死んだ母から娘へ毎年「手紙(遺書)」が届くTV版第10話のアフターストーリーが導入として使われていたことを考えれば、遺書性を増す手紙の在り方は無視できません。
 それと同時に、「讃歌」という漠然とした対象にささげる代筆業務を通して、ヴァイオレットは「死」や「ギルの不在」に対する不安を強めていきます。

 その証左に、作中冒頭、ヴァイオレットは自らが書き上げた海の讃歌について「(海という)生きているか、生きていないかわからないものに書くのは難しかった」と言っています。

 ここでいう海とは安否不明となっているギルバートの暗喩だと考えられます。
 なぜなら多くの命を生み、育てる象徴でありながらも決して応答してくれない海とは、彼女に全てを与えてくれた最大の愛しい存在でありながらも、「生きているかどうかわからない」相手、ギルバートそのものだからです。

 一方、この賛歌という、届くかどうかわからない想いを綴ることに寂しさを覚える彼女にとって「遺書」は希望となっていきます。
 何故なら「遺書」とは自らの死を前提とすると同時に、受け取る相手の生も前提にしているからです。そこには想いの有機的な関係が生きているんですね。
 生きているうちにはその思いは伝えられない。しかし、一方的にであれ、自分の想いは伝える事ができるーそこにヴァイオレットが「遺書」に見出す希望の光があるわけです。

 こうしたヴァイオレットの心情がもっともよく見てとれるのが、死の病にかかった少年の依頼を受けるシーンです。
 当初、少年に代筆の依頼を頼まれた際、ヴァイオレットは定額通りの料金を提示して事実上の門前払いを試みます。しかし、少年の依頼内容が「遺書」とわかった途端に特別料金で依頼を引き受けてしまう。
 そして生きているうちには伝えられない想いについて少年と語り、深く共感していくのです。

 また、ギルの島における海の讃歌の扱われ方の変化は、ヴァイオレットとギルの関係性にもオーヴァーラップします。
 かつては海の無限の愛を讃えるための讃歌も、ギルの隠れ住む島ではいつしか死者を弔う為の歌ー「鎮魂歌」になってしまっていたように、ヴァイオレットの中でもギルへの想いは不在への諦観の色彩を強めています。

 だからこそ、本作は「遺書」という想いや存在の有機的な繋がりの可能性(死→生)と同時に、「賛歌」という生きているものから死んでいるかもしれないものへの空疎な絶望(生→死or?)という2つのフレームワークの中からスタートするのです。

「電話」についてー再び喚起される「生」

 本作でもっとも無視できない存在が「電話」です。
 物語の冒頭では手紙に取って変わる「いけすかないやつ」としてチラチラと描かれていましたが、「手紙(遺書)」を用意できなかった少年が代わりに「電話」を使った瞬間から、「電話」は決定的に無視できないものになります。しかしこれはテクノロジーのパラダイムシフトの意味において重大な意味を持つ、というわけではありません。
 なぜなら本作、そして本シリーズにおいて人に想いを伝えることは「手紙」の専売特許だったはずだからです。
 「手紙」が遺書性を増すということは、死者→生者への有機的な想いや存在のバトンとして機能する以上、死という概念が前提にあるわけですが、それでは「電話」はどうでしょうか。
 「電話」の役割は少年の死後、ヴァイオレットも「少佐の声が聞けただけでもよかった」と言うように「声」の大切さを示唆するためのものであることがわかります。ここでいう「声」とは、即ち「生」であり「実在」と言い換えることができるでしょう。
 何故なら、「声」とは、相手が生きているが故の賜物だからです。
 つまりここではやはり「声」=「生」なのです。事実、ヴァイオレットの「ギルバート少佐の声が聞けてよかった」という台詞は「ギルバート少佐が生きていてよかった」に完全にパラフレーズ可能ですから。
 つまり、「電話」や「声」が主張するのは「生」の重要性ということになります。
 ここで物語は大きな転換点を迎えます。
 つまり、「死」を前提とした「手紙(遺書)」や「賛歌(鎮魂歌)」にそった物語から「電話」が「生」、「生と生の繋がり」の可能性を強烈に取り出すのです。

「賛歌」と「鎮魂歌」の両犠牲ー「あいしてる」の意味

 本作のラストにおいて「あいしてる」という言葉が画面の中で揺れている示唆的なカットがありましたが、この言葉は何を意味しているのでしょうか。
「海の賛歌」が宛先のない手紙として「遺書」と対称性を帯びていること、そしてギルの島ではかつて「賛歌」であったものが死者を弔う「鎮魂歌」になっていることは既に述べました。
 ヴァイオレットが生を讃える「賛歌」に手応えを感じられずにいた時、ギルは死者のための「鎮魂歌」を歌う孤島の中で自分の人生を捨て、贖罪にすがりつく世捨て人になっていたんですね。
 つまりこれらの歌はもとは同じ主旨の歌でありながら、ヴァイオレットとギル、それぞれの立場から「賛歌」「鎮魂歌」という両義性を持ちます。同時にふたりに共通することは、その想いを伝える相手がいないこと。そしてその相手の不在が、自らの人生を空疎な手応えのないものにしてしまっていることです。
 「電話」で「声」、「生」の大切さに気づいたヴァイオレットは、面会を拒絶したギルにせめてもと「手紙」を残します。この「手紙」が本作において彼女がしたためた唯一の「遺書」ではない「手紙」であることは既に述べました。
 そしてその想いを受けとったギルは島を離れようとするヴァイオレットを追いかけ、海で感動的な再会を果たし物語は劇的なハッピーエンドを迎えます。そう、再会の場は海なのです。

 「生」に感謝する「賛歌」と「死」を弔うための「鎮魂歌」の両義性が与えられた海でふたりが邂逅を果たすのは、それだけでドラマチックであると言えるのですが、この両義性が「あいしてる」という本作の最後のメッセージにも繋がっていくのです。

 平仮名の「あいしてる」に漢字を当て込めば「愛してる」そして「哀してる」と読むことができますが、この温もりと冷たさにおいて全く異なる印象を受けるふたつの読み方は、実は本作を底通するメッセージだと言えるでしょう。

 本シリーズ、そして本作でヴァイオレットは常に哀しみと触れ合いながら愛を育んだように、哀しむことで常に誰かの想いが温もりとして彩られたように、愛することとは哀することー哀しみに潜む愛の可能性を問いかけ続けてきたのが『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』だったのではないでしょうか。

「あいしてる」の両義性ーわたし達と無名のドール達

 ところで本作は、作中で時代設定をまたいだふたつの物語が平行で語られながらそれぞれの形で接続され、収斂していく構造をとっています。

 まずはヴァイオレットとギルのラブストーリーとして、そしてもうひとつはドール(代筆業・郵便業)が廃れて記念館として営業している郵便社に訪れた少女デイジーがヴァイオレットの足跡を辿り、自らも手紙をしたためるに至る後世の物語です。
 正直、ギルとヴァイオレットの話だけで終わってもよかった本作がデイジーによって後世に伝えられたヴァイオレットの功績を辿る「ヴァイオレットの生涯」というフレームを導入する必要はありません。何故ならふたりは「生と生の繋がり」によって無事に結ばれているわけですから。
 このフレームの導入が故にかなりの長尺になっていますし、しかもヴァイオレットのその後を知れるわけでもない。彼女の足跡はある時を境に突然途絶えていて、名を残したドールとして語られているわけでもありません。あくまでひとりの無名のドールとして示唆されるに過ぎないのです。
 私はこのフレームは、京アニ事件を受けて導入されたもう一つの物語、メッセージではないかと思うのです。
 序で述べた通り、本作は制作途中で京アニ本社への放火という悲しい事件が起こり、多くのスタッフの方が亡くなり、結果的にその方々にとって「遺作」となってしまいました。そして本作を生き残ったスタッフの皆さんが完成させ公開したということ自体が、生前のスタッフの意思を引き継ぎ、それを誰かに届けるという本作における代筆業そのものであり、それは『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という物語の扱うテーマを完遂させることに他なりません。
 そしてこの後世のフレームで語られるヴァイオレット、つまり忽然と消息を絶ってしまったドールとは、京アニ事件でお亡くなりになったアニメーターの方々の姿と重なるように思えます。
 ここで「あいしてる」の両義性がその真価を発揮するのです。
 つまり、生き残ったスタッフの方々が、亡くなったスタッフの方々の死を哀しみながら、彼らが愛した『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を作り、作中に後世のフレームを導入すること自体が「あいしてる」のであり、本作は亡くなった彼ら、彼女らへの「賛歌」であり「鎮魂歌」なのです。
 そしてこの物語と、物語が作られる過程をメタ的な二重構造として提示された我々は、京都アニメーションから、そのドール達から『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という一通の手紙を受け取るのです。
 多くのアニメファンがあの事件で哀しみました。
 そしてまだ、多くのアニメファンが京都アニメーションの作品を愛しています。もちろん、本作『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』もその一つでしょう。
 京都アニメーションにおける作品の多くは、その驚異的な作画力とセンスにおいて多くの評価を集め、本シリーズがその最高傑作であったことは疑いようがない事実です。
 しかし、その技術を支えていた多くの方々が亡くなってしまいました。京都アニメーション社長が「再建は不可能に近い」と言ったのも単に資金の問題ではないでしょう。
 ですから、デイジーがかつての技術やそれによって綴られた想いが残された郵便社の記念館を訪れる時、私たちもまたかつての京都アニメーションを訪ねているのかも知れません。
 そして、私たちが『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という物語を哀するとき、京都アニメーションというスタジオを、そこで働いたドール達に愛しみを覚えるとき、そしてそれらが私たちの琴線に触れたとき、本作の「あいしてる」という両義性に満ちたテーマは「物語・物語を作った人々・それを見ている私たち」という3層のレイヤー構造を貫通し、どうしようもなく心を揺さぶるのです。
 きっとそのとき、私たちはヴァイオレット・エヴァーガーデンという無名のドールたちからの手紙を受け取っているのではないでしょうか。
 しかしそれは「遺書」ではないのかもしれません。
 それは本作の最後、鞄を持ったヴァイオレットが一歩一歩、静かに旅立っていく後ろ姿を見て確信することができます。
 きっと、ヴァイオレットたちはまだその営みをやめてはいないのですから。

 

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