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シン・庵野秀明考ー「虚構」と「現実」の合板仮説を通して。

 最近、友人の誘いで3回目のシン・エヴァを見てきて大幅に意見が変わったので、友人と一緒に今一度エヴァに向かい合っている。

 以前の感想はこのnoteでも書き散らしたように、暗澹たるものだった。

 要約すれば「庵野結局女にまとめてもらっちゃってんじゃん!それがお前の”着地”かよ!それが大人になるって事なのかよ?」である。

 結論から言うと、どうやらそう言うわけではなかったらしい。

 僕は大人になった碇シンジの声が神木隆之介になっていたことに関してもひどく怒りを感じていたが、よくよく考えればはあれは庵野が「庵野=碇シンジ」と言う図式を手放したサインに他ならない。

 つまり、あの新宇部駅での28歳の碇シンジは虚構なのである。

 その上で、マリ=モヨコという現実の代表者と手を取りあうことで、新宇部駅という現実と虚構が交差するターミナルをドローンという俯瞰のパースペクティブで撮影するに至る事ができたのではないだろうか。

 そう考えれば、本作の物語の辻褄が次々に符号し始める。

 例えば新宇部駅のシーンについてもう少し説明を加えるなら、シンジとマリが立っていたホームが現実側で、渚カヲルや綾波レイが立っていたホームが虚構側だと言えるのは今更な論議だが、カットの変更が施された『EVANGELION:3.0+1.01』でアスカの座っているベンチの位置がより遠くにすり替わっているのは、マリへの配慮としては妥当なものだろう。

 例えば元恋人、しかも絶対に呼ばなければならない女性を結婚式の席次表のどこに配置するかは多くの既婚男性が直面する難問だろうし、本作のラストシーンにおける虚構と現実の二元性から考えても、今はアスカは遠い方が正しいだろう。いや、むしろ現実側のターミナルに虚構の碇シンジがいたのならば、虚構側のターミナルにいるアスカに現実の残滓が与えられていてもおかしくない。ところで現在と虚構をマリとアスカという2人の女性で表象するとするならば、ある意味これは庵野秀明の二股ということになり、まぁまぁほんとにこういうところだよと思う笑

 また、ここで渚カヲルと綾波レイが仲良く会話しているシーンが示す意味は、ユイの意思でゲンドウが救われた事以上の意味も示すだろう。

 碇ゲンドウ=渚カヲルであったことが明かされた本作だが、どちらかというと渚カヲルが碇ゲンドウ足りうること(カヲル君をゲンドウって事にしちゃえばいいじゃん!)で現実と虚構の渚という波止場が成立し、そこでゲンドウもユイも綾波レイも救うことができたのだと考えられる。

 最後、シンジがマイナス宇宙側のキャラクターと蹴りをつけて行くシーンで綾波レイが人形のヒバリを抱いていたのも、彼女を閉じ込めたのがプリヴィズ(現実と虚構を行き来するための現実)のスタジオなのも、彼女には虚構の渚にいてもらう必要があった証左だろう。
 これはリアリティにこだわって描いた第3村での営み、そしてアヤナミレイとヒバリの交流が実は虚構性を一段と強調するものであった事も示している。そのコントラストと矛盾の狭間こそが庵野秀明にとっての真実であり、そして何よりアヤナミレイという模造品、虚構こそがシンジに現実を教唆してくれたことは『シン・ゴジラ 』の続きともいえよう。

 『シン・ゴジラ』は災害という圧倒的現実に虚構で挑む物語だったが、虚構の強さの再確認はできたものの、その二項対立の答えは出なかった。しかし本作では「渚」というマジックワード(もうそう言ってしまいたい笑)で、その両者を接着することで彼の作家としてのパースペクティブが確立されたのだ。この後も続く「シン」シリーズも彼の作家性の歴史となるだろう。

 閑話休題。

 そしてまさに「子」という、母と父の間の渚としての存在の碇シンジを救ったのがマリである。彼女こそシンジとの新しい渚を生み出すためのパートナーなのだろうし(生み出さないかも知れないが)、現実世界の彼の監督者なのだ。だからこそ、シンジがマイナス宇宙(虚構)で待たされた場所は砂浜=渚であり、マリが登場することでシンジの世界には色が現出するし、首輪は(シンジは自分で外すことはできるが)マリが預かることになる。

 このように、本作で庵野秀明は現実と虚構という彼にとって表裏一体の概念をゲンドウとユイ(綾波レイ)、シンジとマリという二枚の板として用意し、接着して1枚の合板にしてしまう事で2つの現実と虚構を、全て真として同時に成立させることに成功したのではないだろうか。勿論その2枚の板の接着面が誰であるかは言うに及ばない。

 そして、二枚の板の間に今までの碇シンジ=庵野秀明がいるのだとしたら、ラストシーンでの緒方さんの声の碇シンジがどこにもいない事も問題ではないし、正にあのカメラワーク、パースペクティブに帰着するであろう。 

 ところで合板(コンパネ)は、もはや庵野監督の作品には必須だろう。

 論旨から脱線はするが、エヴァとはそもそも全てがコンパネだったと言う事もできる。

 今回はキャラクター論を主軸に解釈を試みたが、その場合周辺人物(サブキャラ)とアスカへの扱いの課題は残るので、折をみては友人と議論を進めたいと思う。

 それもマイナス宇宙と第3村との位置関係を探っていけばおおよそ解けるのではと思っているが、どうにも現実と虚構にはグラデーションがありそうな気がしていて、それでは今回の「合板仮説」はうまく行かなくなるのだが、まぁ、大分満足したのでもうオッケーかな。笑

 とにかく個人的におおよその結論が出てホッとしたのでした。

 え?卒業?しません!!あと一緒に考えてくれた友人に感謝!

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