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弔辞

2021年10月27日、父が59歳で往生した。

昨年の6月に肺がんが見つかり、見つかった時点でステージ4。約1年4ヶ月の長くも短い闘病生活だった。

10月26日、仕事を午前中に切り上げて、北海道へ帰り、家に着いたのは夜の9時。
麻酔で目の焦点が合わず意識も朦朧としていたけれど、介護ベッド上の父は少しだけ笑って出迎えてくれた。言葉も発することは出来なかったが、手を差し伸べてくれて、握手をした。

次の日の朝、段々と呼吸の間隔が長くなっていき、家族に囲まれながら息を引き取った。

通夜、葬儀には沢山の方が参列してくれた。通夜は合焼香の住職が導師を務め、ご法話してくださった。葬儀では組内法中の方やお寺の役員の方々が弔辞を読んでくれた。
自分は読む役でもなかったし、意味のあるものかは分からないけれど、この度往生した父への謝意とこれからの自分のために何か書き留めておきたくて、弔辞代わりのnoteを書こうと思う。


弔辞

僕は実家のお寺の次男として生を受けました。お寺が大きくなるにつれて、跡継ぎは二人いた方が良いという流れがあって、自分が生まれてきたという話を祖母から聞いたことがあります。
幼い時から父は一人前の僧侶になれるように作法やお勤めを厳しく教えてくれました。威厳のある父で、小さい時は怖かったです。仲の良い親子のような距離にはずっとなれませんでした。
気は短かったけど、周りへの気遣いはとてもある人で、周囲の友人や門徒からは、優しくて柔和な人だと評判でした。殊に仏道においては誰よりも真剣な人でした。

中学生の頃、多感な時だった自分は、将来お坊さんになることが嫌でした。
ある日泥酔した父はそんな僕を叩きつけ「京都に行かないなら応援しない」と激情したことがありました。京都に行く、というのは、僧侶になることを意味していました。
突然のことで、何が起こったのか戸惑いました。聞けばその直前に、父は将来のお寺のことを門徒の方々と語り合い、僕の将来の話にもなっていたようでした。やっぱり僕には僧侶になって欲しかったんだろうと思います。

結果、僕は京都へ行き、得度を受けて僧侶になり、素晴らしい先生方や法友と出会うことができました。いつ頃からかは明確に覚えていません。いつの間にか、仏道を歩み、仏教のことが大好きになっていました。
自分は父のお陰で仏教に出会えました。
今なら、あの時の父の気持ちが分かるような気がします。

思えば、京都へ行ってからは、あれしなさい、こうしなさい、と言われたことはありませんでした。ギターを弾きなさいとも、布教や臨床研修や声明の勉強をしなさいとも、言われませんでした。
全部自由に、僕が選んでやってきました。でもきっと僕は、ギターを弾き、念仏を称える父の姿に育てられてきたんだと思います。

僧侶とは、人々が見たくないものを見続ける人で、そのためには、何の心配もなく決められた道に安住してはならず、進んで孤独と恐怖に出会っていく必要がある、という信念のもと、僕は26で東京へ行くことを決めました。
本心では実家に帰ってきて欲しかったかもしれないけど、父はそんな自分の背中を押してくれました。
僕が東京に来てから癌が発見されましたが、一度しか帰れませんでした。もっと帰れば良かったなとは思いますが、現実は難しかったです。そしてそれを父は分かってくれていました。僕は、この数年間、一日たりとも無駄にした日はありませんでした。
父から直接褒められたことは多くはありませんでしたが、父の死後、僕が布教伝道している動画を周りに見せていたことを知りました。

「すぐにどうこうという訳ではないから、話だけしてくれないか?」と父はたまにお見合いの話を持ちかけてきました。優しい父のことだから、周りからの縁談話にも乗っていたのだと思います。僕はあまり乗り気にはなれませんでしたが、父の不器用な気遣いにも気づいていたので、僕から縁談を断ったことはありませんでした。でも知らず知らずのうちにいつも話は流れていったので、父も僕の気持ちを汲み取って、うまくやってくれていたんだと思います。
父が往生した次の日、夜ご飯は家の近くの洋食屋にしました。そこは生前父がよく行っていた洋食屋で、ついこの間も父は食べに行っていて、「息子が見合いの話を受け容れてくれない」と、このお店で愚痴をこぼしていたとか。愚痴をこぼしていたということは、やっぱり本心では僕の将来を心配してくれていたんだなと思います。心配というか、逃げ道を用意してくれていたんだと思います。
進路の話をした時も、「東京に行ってもいいし、他のお寺に入ってもいい。でも、うちに戻ってきてもいいから」と、いつも逃げ道を用意してくれていました。

働けるようになって、初めて貰ったボーナスで両親にワインを買いました。
ワインについて何の知識もなかったので、ワイン店の店員さんに一つ一つ聞いて、ワイン好きな父も満足出来て、そんなに飲まない母も楽しめるような、そんなワインを選びました。
ワインを贈った数日後、父から「2000年のボルドーワイン、2級シャトーを選ぶとは、やるね」と連絡が来ました。僕が1時間以上店員さんと話し合って決めた内容を一瞬で見抜かれた時はさすがに尊敬しました。

結局父は、そのワインは一口も飲まずに往生しました。家族みんなが集まるような日のために取っておいたらしいです。
父が亡くなる一週間前は、ちょうど父の誕生日でした。
治療も限界が来ていて、死期が迫っていることは家族も理解していました。
でも、なんて声をかければいいのか、言葉が全く出てきませんでした。
ようやく絞り出して、LINEで送ったのは、
「元気になったら、贈ったワインを一緒に飲みたい」という言葉でした。
父は、一滴も飲みませんでしたが、このワインを周りによく自慢していたと聞きました。

父も息子も、そんなに器用ではないので、すれ違いは多かったけれども、どこか互いを汲み取り、気にかけたりしていました。
父はもうこの世にいません。でも、こうやって色々思い返してみたり、色んな人から父の話を聞いたりしてみて、少しだけ父と心を通わせられたような気がします。どうやら、人が死ぬというのは、その人と出会い直す、ということのようです。


父にありがとうとお礼を言ったことはほとんどありませんでした。言っても顔に出して喜ぶような人ではなかったし、歳を重ねるごとに、自分も照れ臭さがあったので、きっと父も同じだったんだろうと思います。
でもやっぱりこの際だから、言わせてください。



お父さんへ
本当にお世話になりました。ありがとう。



お父さん



僕はもう少しだけ、この娑婆世界を生きていこうと思います。


2021年12月14日(父の満中陰にて)

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