歴史が塗り替えられる狭間で|池永天志五段
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歴史が塗り替えられる狭間で|池永天志五段

 私は奨励会三段リーグに16期(8年)在籍した。これが長かったのか、あっという間だったかは今となってはもうよくわからない。というのも、その間のことはほとんど忘れてしまい、その経験が棋士人生に生かされているのかどうかさえも、またわからないからである。ただ、その中で不思議と印象に残っているのが第59回三段リーグだ。
 この回は三段の人数が珍しく関西所属のほうが多く、開幕戦は異例の関西将棋会館での開催になった。普通は開幕とラストは東京・将棋会館で一斉に行うので、少なくとも自分が在籍した中ではこのときが唯一だったように思う。
 前半は好調な滑り出しで、半分を消化した時点では暫定トップに立った。しかし、その直後の例会にて連敗し、棋士になりたてだった都成竜馬四段の家に銭湯を経由した後に突撃して朝までお邪魔したのは懐かしい。 
そして2016年9月2日。私は翌日に控えた三段リーグ最終日のため東京に移動していた。東京移動の際は弟弟子の冨田誠也三段と毎回一緒で、新幹線で2時間半しゃべり倒し、新宿で夜食を求めてさまよう、というのが恒例だった。
 この日はたしか回転ずしのお店に入った。どうして覚えているかというと、ここで「玉子事件」(と私が勝手に呼んでいる)が起こったからだ。彼は、将棋指しは最後に玉子で締めるのがいい、と言った。曰く「玉を取る」という意味で、将棋漫画にあったネタだそうだ。要はゲンをかつぐというわけである。しかし、私は寿司屋で玉子を食べる習慣がその頃にはなかったので、結局食べなかった。
 これだけでは別に事件でもなんでもない。実はそのときの私の状況が関係している。三段リーグの最終日を迎えた昇段争いは次のようになっていた。
 
(1)大橋貴洸 11勝5敗

(5)池永天志 12勝5敗

(27)藤井聡太 12勝4敗
*カッコ内は順位
 
私は抜け番調整の関係で1局多く消化しており、最終局が抜け番だった。次に勝っても、絶対昇段が決まるいわゆる自力というわけではないものの、大橋、藤井両三段がともに連勝しない限りは昇段する、というかなり有利な他力である。
 相手は斎藤明日斗三段。内容としては、優勢な局面もあったものの熱戦の末に敗れてしまった。状況も状況だけに熱い負け方のような気もしたが、それを表に出すのも面倒なので淡々と感想戦をした。余談だが、ちょうど1年後に今度は斎藤三段の昇段のかかった一番で当たって負かされ、往復ビンタを食らったのも懐かしい思い出だ。
 負けたらすぐ大阪に帰るつもりだった。しかし世の中うまくいかないものである。1局目の結果が出そろうと、帰りにくい状況になっていた。

(1)大橋貴洸 12勝5敗 昇段

(4)黒田尭之 11勝6敗

(5)池永天志 12勝6敗

(27)藤井聡太 12勝5敗

私の昇段の可能性が残った(最終局で藤井負け、黒田負けの場合)ため、帰るに帰れなくなったのだ。いや、特に止められたわけではなかったので、帰っても良かったのだろうか(笑)。
「藤井君、負けたんかい」
と心の中でツッコミをいれて(勝ちなら昇段の目がなくなって堂々と帰れた)、昼食を取りに将棋会館を出る。三段リーグの2局目はだいたい14時ごろから始まる。持ち時間は90分なので、17時ごろが平均的な終局時間である。つまり、結果が出るまでめちゃくちゃ暇なのだ。カレーを食べて、カラオケで時間を潰すことにした。
 しかし、受付で「この時間は、フリータイムでのご利用はできません」。これは一本取られたと思いながら1時間で入室。たいして時間も潰せないままカラオケを出て、いやはやどうしたものか。カラオケをはしごする元気はない。また、喫茶店に寄るという発想が当時はなかった。指す手が見えない。
 仕方なくゆっくり歩いて将棋会館に戻り、対局室のある4階のベンチに座っていた。まだ終わった対局はなさそうで、ボーっとしていた。
 時間がたつにつれ、ちらほら対局室から出てくる人が現れてきた。
 そのうち階下から、職員や記者の方が何名か階段を上ってきて、
「あぁ、藤井君あがったんだな」
と、ボーっとした頭で勘付き、やっと帰れることに安堵し、ちょっぴりあった期待が折れ、絵に描いたように呆然としていた。
  
あの瞬間に到来した複雑な感情は、もう2度と経験することはないだろう。

 帰りは弟弟子と2時間半しゃべり倒し、さらに新大阪駅で終電近くまで夜食をとりながらしゃべり倒して解散した。そのときはまだ、希望があった。
 だから、次の三段リーグで何をやってもうまくいかず、全然ダメになるなんて夢にも思わなかった。まあそれはまた別の物語。そもそもあまり覚えてもいない。
 こうしておぼろげな記憶で過去を振り返ってみると、三段リーグで学んだことは意外に多いだろうか。たとえば、自分に対して無駄に期待をしないこと、人生は諦めが肝心なこと、感情的になっても仕方がないこと。
 でも、相変わらず寿司屋で玉子は食べないけれど。

*文中に出てくる段位はすべて当時のもの。

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