見出し画像

棋士は食べることが好きだ|糸谷哲郎八段

 棋士は食べることが好きだ。
 とまあ主語を大きくしてしまったが、そもそも大半の人は食べることが好きだし、美味しいものとなれば嫌いな人の方が少ないだろう。もちろん先輩方の中には食通と呼ばれるような方もいらっしゃるが、ほとんどの棋士はまだその域には達していない。私のようなものに至っては、せいぜい食のミーハー、今風ならばにわかグルメとでも言ったところだろうか。
 さて、そんなにわかグルメの私だが、美味しいものを食べたいという気持ちだけは旺盛である。そんなわけで今回のコラムは、数年前の私が遠征時に対局に勝ってホテルに戻り、人心地つけたところから始まる。

 対局後というのは大抵の棋士が特殊な状態に陥っており、私の場合対局に勝った状態からしばらくは対局中と同じ緊張が続く。段々とアドレナリンが落ち着いてきて対局中の疲れだけが身に染みてくるのだが、頭は冴え渡ってしまって容易に眠りにもつけない。
 そうなると段々と「なんか美味いものでも食べたいな」という邪念が頭から湧いてくるのである。とはいえ時刻は日付をまたいでおり、今から何か美味いものを食べに行く時間でもない。そうすると今日は一旦寝て、明日の昼食を考えることとなる。そのとき私の頭に浮かんできたのはTKG、いわゆる卵かけご飯だった。

 一口に卵かけご飯と言っても様々だ。素朴なご飯と卵に醤油だけ、という日本人の魂の三位一体といっても過言ではない組み合わせのみという素朴にして完成されたもの、鰹節などひと手間を加え、旨味の重奏、出汁を使ってとろみをつけた餡を追加するなど更に一工夫を加え、より高みに届くもの……
 しかしその時私の脳裏に浮かんだものは、それらではなかった。「日本一高級な卵かけご飯」という数日前に見掛けたフレーズが、まるで悪魔の囁きのように、私の視界を支配し、胃袋の欲求へと広がっていく。対局後は気が大きくなっており、金銭感覚も壊れていた。普段ならストップを掛ける感覚が機能を果たしていなかったのだ。

 食べるものを決めたなら、次はリサーチである。検索の結果、高級な卵かけご飯は、二杯分の米と卵が出てくることが分かった。流石に卵かけご飯のみを食べに行くわけにもいかないだろうから、そうと分かれば道連れがいる。気づけば午前二時を回っていたが、私の手は既に勢いよく共に遠征で東京に来ていた同僚への通話ボタンへと延びていた。
 同僚はワンコールで応答し、そして読み通り深夜のラーメンを食べていた。この読みは対局中の読みよりいくらかわかりやすい。彼は何よりも深夜のラーメンと酒を愛し、そして気のいい棋士である。明日美味しい卵かけご飯を食べに行こうという誘いに、御馳走すると言ったこともあってかすぐに乗ってくれた。

 翌日、常宿のホテルから超高級卵かけご飯が提供されているというホテルに向かった私と同僚の脳内に浮かんだ疑問は、和食の和の字も出てこないような国際色溢れるフロントを前にして、「本当にここに卵かけご飯があるのか?」ということだった。そして言うまでもない事実は、ラグジュアリーな空間の中で、オンボロのスーツケースを持ちながらいかにもビジネス感溢れるスーツを着ている我々が場違いだということに他ならない。
 されど棋士の(我々の)強みの一つは、無駄に図太いところである。自分たちがこの場所に居ていいのかという精神的な闘い(一方的な)を乗り越え、エスカレーターを目指す。幾階層を登り切った先に到着したフロアには、1Fと同じホテルとは思えない和の空間が広がっていた。

 まずは外から広々とした店内を見やる。まだ昼食には早目の時間ということもあってか、我々と近い年齢層のものは居ない。店名を再度確認し、おずおずと入店の意志を示す。当然の如く素晴らしいお出迎えを受けカウンターに案内される。我々はカウンターに置かれているメニューを捲る。平日のランチといえど多彩なメニューの中から御飯を探る。ご飯にも色々種類があるが、その最も下に位置するのが極上卵かけご飯セット。驚くなかれ、実に〇〇〇〇〇円の卵かけご飯である。
 既にこの極上卵かけご飯を食べることは決定していたが、朝を抜いている我々二人の腹には卵かけご飯に先立つものが必要である。メニューをもう一度見渡せば、ランチにはちょうどいいくらいの彩り弁当があるではないか。彩り弁当のご飯部分を卵かけご飯に変更して貰い、あとは食事を待つばかりとなった。
 道連れとなった同僚もまさか卵かけご飯でこんなところに来るとは思わなかったらしく、落ち着かない感じで店内を見渡すが、そこは共に各店を巡った歴戦の勇士である。程なくして、当然のようにその場にいる空気を醸し出すことに成功する。

 弁当は先付から始まり、刺身などが入った本格的なもので、まずはその美味しさに驚くこととなる。昼からこうしたものを食べていると、当然の如くアルコールが欲しくなるが、今回の趣旨は卵かけご飯なので控えることとなった。酔っぱらった舌で極上の物を食べるのは申し訳ない気分になる。続いて焼き物や揚げ物を頂き、十分にお腹も落ち着いたところで、本日のメインに挑む。

 そして遂に我々の前に姿を現したのが、つややかな光る米、既に殻の時点から風格を漂わせる卵、特製の出汁醤油、そして黒々と光るキャビアの瓶である。このキャビアこそが、日本一高級を支える柱だろう。
 見るだけでも迫力の卵かけご飯セットだが、まずは食べねば話が始まるまい。卵の殻を割ると、プンと色濃く、モッチリと弾力を兼ね備える卵黄がその姿を露にする。そして美味しそうな湯気を出す白い米の上に、黒く艶々としたキャビアを載せて頂く。キャビアの塩味が、卵によって包み込まれ、米と共に舌の上で踊る。普段楽しんでいる卵かけご飯とは違う楽しみ方だが、こういう食べ方もあるのだということを教わった気分になる。
 次に、キャビアを忘れ普通に醤油をかけて頂く。ふんわりと口の中で卵と醤油が絡まり、米が進んでいく。まるでお茶漬けのように、米がするすると入ってしまう。まさに日本一の卵かけご飯と言ったところで、気付けばいつの間にか米が無くなっていた。
 やはり自分たちのようなにわかグルメには、キャビアのような普段口にしない高級食材より、食べ慣れた卵と醤油(もちろん最上級のものだが)の方が口に合うのだな、と同僚と認識を同じにし、感慨を新たにした私のところに置かれるのは、無慈悲な黒い会計帳であり、その事実を認識するための、一夜の思い付きの代償にしてはなかなかの教師代であった。

*本コラムは事実を盛ったフィクションであり、現実の棋士、ホテル、店とはあまり関係がありません。
*快く本稿の掲載許可を頂いた都成七段、ありがとうございます。