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特別な対局|冨田誠也四段

 毎日寝る前は選択に迫られている。「あなたは本を読みますか?それともマンガにしますか?」最初の頃は本の優勢が続いていたが、いつからかマンガの連勝が止まらない。本棚の前に立つ前からマンガの勝利は確定的。明日のマンガを楽しみに寝ていると言ってもいいくらいだ。5月も後半に入り、読んでいた『キングダム』も一息つき久しぶりの選択が訪れた。珍しく手が止まると『3月のライオン』が目に入った。そういえば、プロになってから読んでなかったなと思い、我ながらいい手の感触があった。奨励会時代に何度も読み返してはいたが、プロになって読むと今までとは違った感覚になった。言葉で表現するのは難しい。ただ、うん。そうだよなと思うことは増えた。

210707冨田四段・3月のライオン写真

 6月は楽しみな月であった。本戦に出場できた棋王戦が始まること。奨励会時代に手伝いをしていた関西将棋フェスティバルin MBSに出演できること。この2つは改めてプロになったと実感できるいい機会になると考えていた。棋王戦の表を見たとき、思わず固まってしまった。初戦の相手は豊島将之竜王。B級1組以上と対戦できることに喜んでいたが、まさかタイトルホルダーの豊島先生とはというのが本音である。一呼吸おいて、さすがに喜ばないといけないんだろうなと思った。厳しい相手であることは言うまでもないが同時に新四段の私がここで対戦できるのは運がいいとも感じた。関西将棋フェスティバルのイベントの内容を聞くと私は新四段4人でトーナメント戦を行い、優勝したら豊島先生と記念対局をするというものだった。これにはさすがに笑ってしまった。11歳で奨励会に入り、そこから25歳になる現在まで研究会はおろか1手10秒で指す10秒将棋ですら盤を挟んだことがない豊島先生と6月に2回指す可能性があるとは夢にも思わなかった。

 私が万に一つでも勝つ可能性があるとしたら初対局で相手の隙を突くしかないのではないか、イベントとはいえ盤を挟めば公式戦での勝つ可能性はさらに低くなるのではないかなど様々な考えがよぎった。しかし、将棋指しとして勝つ気の無い対局などしてはいけないと考え新四段同士のトーナメントも全力で挑んだ。結果は幸いし豊島先生との対局になった。

210707冨田四段・イベント写真④※関西普及提供

 記念対局とはいえ私にとっては大きな対局。気合を入れて挑んだが玉将が上手く収まらない。手の震えは歩を並べるまで止まらなかった。これが竜王のプレッシャーなのかと感じた。結果は勢い余った暴発で惨敗。完全に舞い上がっていた内容で楽しみにしてくださっていたファンの方には申し訳なく思った。救いがあるのは、まだ公式戦が残っていることであった。

 公式戦前日もいつものようにマンガを1冊読む。『3月のライオン』は13巻で若手の二階堂五段と宗谷名人の対局が描かれていた。二階堂五段の心情が丁寧に描かれており今の自分にぴったりだなと可笑しかった。印象に残るシーンは沢山あったが、言葉を交わさなくても将棋で対話している二人が妙に心に残った。

 一度盤を挟んだことで、もう手の震えはなかった。序盤は研究していた形の派生形になり悪くはないと考えていた。中盤も互角という手応えはあり大きく読みを外されることもなかった。相手が悩ましそうに考えているのを見て「あ、豊島先生と普通に対話出来ている。」と嬉しくなった。当たり前だが対局中にこんな事を考えるべきではない。直後の2択で取り返しのつかないミスを冒し以降は一方的な内容になってしまった。普段の対局では負けを悟ると背中に嫌な汗が流れるが、この日は無かった。心のどこかで勝つことよりも、教わる気持ちが強かったのかもしれない。帰りの電車に揺られながら負けた悔しさより楽しかった時間が自分の軽率なミスにより終わってしまったことが辛かった。それでも、こんなに楽しいと思える将棋はいつぶりかなと思うほど充実感もあった。当たり前だが想像よりもずっとプロの世界は厳しい。それでもプロ棋士になって良かったと再確認できる1日でもあった。

 結果的に楽しみにしていた6月はあっという間に終わった。あとから振り返った時に成長できた月ならいいなと思う。普通にやっていたら豊島竜王との再戦はずいぶんと先になってしまうだろうな。早く戦うには強くなるしかない。その時はリベンジします。と言える性格ではないので少なくとも背中に感触はあってほしいな。

 次は豊島先生ではなく豊島さんとの対局を。