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【シンカビト vol.1】 里 大輔 #part1

少年の「僕」が、今日の「僕」に教えてくれること
里 大輔 / DAISUKE SATO

かつて世界レベルのスプリンターであり、現在は世界のトップアスリートたちにパフォーマンス解放の術を伝える里大輔さん。国内外、様々な競技にクライアントを持ち、「パフォーマンスの設計士」と呼ばれる男は2021年からGRIT NATIONのCPO(Chief Performance Officer)に就任しました。
シンカビト第一弾として、少年期の挫折経験と、そこから得た人生を変える気付き、そして更なる高みを目指して今も奮闘し続ける里大輔さんのこれからについてインタビューしました

#PART1

【誰かに「見られる」ということの意味】
代表 林 周一郎(以降 林):人生の中でどっちに行こうかなっていう分かれ道が何回かあって、どっちが正解かは分からないけど、とにかく決め続けた結果今ここにいる。そういった人生のターニングポイントがどこにあったのか、何を思って決めたのか知りたいです。

里 大輔さん(以降 里):プライベートとしてのターニングポイントであったり、仕事を選ぶ中でのターニングポイント、それをまるっと包めた人間としてのターニングポイントが鮮やかにいくつか浮かんできました。それがターニングポイントだと認識できて、実際にここだなっていう時もあったし、振り返ってみたら、あそこがターニングポイントだったなということも結構あります。

林:どんな少年だったんですか?

里:幼少期は病弱だったので、外には出ることはあまりなかったです。姉が二人いるので、おままごとに付き合ったり、将来は絵描きとか保育園の先生になりたいっていう夢も持ってました。
ターニングポイントっていうほどでもないかもしれませんが、最初のターニングポイントは小学校高学年ぐらいです。少年たちにとって運動会は対決の場で、病弱だった幼少期からは想像つかないと思うんですけど、僕は走ってみたら速かったんです。僕としては負けたらどうしようとドキドキだったのですが、走るといつも勝っていました。大きなターニングポイントとしては、運動会を休むという大計画を立てたところ。なぜなら、小学校生活の集大成で、ずっと今まで勝ってきたからこそ負けたくなくて、綺麗な印象のままでいたかったんです。休もうかな、でもここで休まずにもし勝てたら、もっと自分に自信を持てるかな〜とかって一人で葛藤していました。その時にちょうどアトランタオリンピックの100mの決勝がテレビでやっていたんです。それを見て、全身に衝撃が走ったのを今でも覚えています。これはかっこよくもあり、美しくもあり、強さもあり。
レースの中では自分勝った姿を当然客観的に見る機会ってないじゃないですか。このレースを見て、初めて足が速いってこうやって見えているんだっていう、「見られる」っていうことに気づきました。

林:おお、それは面白い気付きですね。

里:はい。誰かが見てくれるということを認識した時に、ここのステージから降りたくないって思ったのが、一つのターニングポイントです。僕はそれに気付いていなかったら、競技スポーツをやっていなかったし、ずっとお山の大将というか、井の中の蛙で終わっちゃっていたと思います。もうはっきりそのターニングポイントが自分で分かっていて、それがこうやって今に繋がっています。

里:自分が走ったり、何かするってことは誰かが見るっていうことで、やっぱりする感動もあれば、見る感動もある。僕は日本の中でも速い方だったから、田舎の人間からしたら超速かったんですよ。観客の歓声がウエーブのようになっているっていうのをよく聞いていました。当時はあんまりよくわかってなかったんですけど。翌年には日本のランキングだと四番目ぐらいの選手で、結局その1年後とかには日本で一番で、世界で四番目ぐらいの選手だから、長崎の小さな田舎で、世界レベルの子供が走っているのを見て、やっぱりみんな驚いたと思うんですよね。

【” 負けました ” というバッチ 才能があった僕が初めて経験した挫折】
林:特殊な訓練をしてなくても速かったんですか?

里:最初はそうでしたね。僕はその後陸上競技を始めて、市・県・九州大会と負け無しで、競技を初めたその年の秋には全国大会に挑んだのですが、見事に七位で敗れるわけですよ。当時天才と呼ばれていた、中学一年生で11秒1で走った選手がいて、物凄い速いんですよ。それが初めての挫折です。負けたこともショックだったんですが、負けましたっていうバッチをつけてみんなの前に帰るっていう恐怖を感じました。今日自分は一番じゃなくなったんだっていう挫折が自分の中でターニングポイントです。
才能だけでは届かない場所があるから工夫をするというわけですが、逆に才能があったからこそ、そういう挫折という壁までに到達するのが早かったんだと思います。僕は怪我が多く、体も弱く小さかった。100mの決勝に残ってくる選手って、中学生でも皆、高校生みたいな身体つきだったんですよ。だから、このままやっていても自分は絶対に勝てないなって思いました。

【恩師が教えてくれた ” 突き詰める ” 作業】
里:そこでまた「逃げる」か「逃げない」かの選択があるんですけど、やっぱり勝ちたいっていう気持ちが強くなって、そこから工夫をはじめました。その工夫が、今のパフォーマンス・アーキテクトという名前が付いた根っこの部分になります。
まず、自分の能力図を何個かに分類しました。結局、二十角形ぐらいになって、そこで自分の中で何が一番弱くて、何が一番強いのかという分析を始めました。その結果、自分には突出した能力がないということに気が付いたんです。自分はトータルパッケージで勝負するしかないって思ったので、そこから色々な練習に対して工夫をしていきました。
大切にしたことは、「突き詰める」ことですね。陸上部の顧問の先生が教えてくれました。すごい田舎の中学校で、とんでもなく足の速い少年が来たのにもかかわらず、先生は僕の将来を考えて、一切プランを僕に与えませんでした。まず僕によく考えさせて、その答え合わせをしてくれる先生でしたね。思いつきだけではなくて、順番を考えてきちんとした根拠を述べられるっていることを、先生が教えてくれました。

林:僕自身の人生を振り返るとそういう人っていなかった。むしろ僕は、瞬発的な「その場をうまく切り抜ける」っていうスキルはすごく高かったんですよ。でもそれって掘って掘って本当に本質があるものなのか?というと、違う気がする。三菱商事とか慶應みたいな大きな船の中で、大勢に紛れている時はごまかせたことが今通用しない。困難に直面して、自分の価値を真に問われたときに、ヤバイな、このままじゃダメなんだなって壁にぶち当たりました。

里:僕も割と帳尻合わせは上手いタイプなんですよ。小さい頃から、何か発表しなさいって言われたら、全然準備もしていないのに、パッてそれっぽく出来る。でも、自分がぶつかった壁のおかげで、きちんと仕込みをする作業がないと、あっさり負けるっていうことを知ってから止めました。それこそ、本当にそれが何もなかったら、僕は親元を離れて挑戦もせずに、ぬるま湯に浸かっていたかなって思いますね。

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