往復書簡 第3便「贈与のサイクル」(往信:タムラ)

内田先生

2度目の「才能」についてのご返信、ありがとうございました。
「才能」は天賦のものですから、「贈り物」のひとつで、「贈ってもらったものへのお返しをする」ことを前提にしているのですね。

“わたしがひとりでがんばってるんだから、この私の才能も、それで得たお金もなにもかも、わたしが独り占めして当然!”という心持ちは、“わたし、贈与のサイクルから外れております”という(声には出していないけれど)宣言になり、周りの人へ無意識にそれが伝わって、世の中や天からの支援が途絶えて、最悪の場合は(社会的な存在としてだけでなく、おそらく生命としての)命が終わる。

一方で、“いろいろな贈り物のおかげで、わたしはこんなに物心ともに恵まれておりまして、感謝しかありません。本当にありがとうございます。”という心持ちは、“わたくし、おかげさまで贈与のサイクルに乗らせていただいてます”と(無声で)広報していることになり、周りの人へ無意識にそれが伝わって、世の中や天からの支援が注がれ、社会的に幸福で豊かに命がめぐる。

才能というのは、適切に使うことで増幅・存在し続けるし、扱い方を誤ると一気に縮減・消失してしまうものであり、いろいろな人がいることで、才能の存在に気づけるものなのですね。
たとえささやかであっても、自分に贈られている才能の存在を認めて、贈与のサイクルに乗っていたいな、ととても強く思います。その方が、なんだか楽しそうなので。

さて、今回は「才能」のお話に続いて、「贈与のサイクル」について、質問をいたします。

内田先生のご著書『困難な成熟』で「贈与論」について拝読しながら、“わたしに天から与えられているものって何だろう?”と、考えたことがありました。
ひとりで、「ん~…」と唸りながら、「あれかな?これかな?」と思い浮かべるうちに、「待てよ…あれ?生まれてきたことじゃない?これって、与えられたものなんじゃない?」と思ったんです。
この思い付き、全然何の根拠もないし、そもそも贈与論から大幅にずれた解釈だろうな…と感じながらも、「この命そのものが贈与されたものだったら…」と考えていると、ものすごく微細なのですが、自分の中に、ちいさくやわらかなふたばの新芽がたくさん一気に芽を出したような、生命力が湧いてくるのを感じまして。

そして、「この命、贈ってもらっちゃったから、お返ししなきゃ。なにがあるかな…えぇーっと…どんなお返しがいいかなぁ…」と、具体的な才能が何なのかわからないうちから、なかば衝動的にお返しをし始めてしまうような、背中を押されるような感覚もありました。
決して自己犠牲的な、自分をすり減らすようなお返しではなくて、喜びと驚きがあふれかえっている状況に慌てつつ、両手で作った器の中にある大事なものを見つめながら、「あらまぁ、どーしましょうねぇ。なにかいいお返し、ないかしら?」と頭を悩ませているような。

先ほど、「この命そのものが贈与されたものだったら…」と書きましたが、命が生まれるにも、人間が生きるにも、「自分だけで」「自力で」「独力で」は無理ですよね。
ひとりで、じぶんだけで生きるのは無理だけど、「贈られたもの」でじぶんそのものが出来上がって今存在している、ということが、「生きるちから」とか「生命力」を駆動するかもしれない。
そういう感じがしてまして…(どんな感じなんだ…汗)。

命そのものがまず「贈り物」であり、才能は命を生かすため、人とかかわって豊かな人生を歩むための「贈り物」なのかな…なんて思っています。

まとまりのない質問をお送りします事、お許しくださいませ。
どうぞよろしくお願いいたします。


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