往復書簡 第3便「贈与のサイクル」(返信:ウチダ)

タムラさま
こんにちは。内田樹です。

今回は「贈与」についてですね。
贈与についてのは原則的なことは、マルセル・モースの『贈与論』とマリノフスキーの『西太平洋の遠洋航海者』とクロード・レヴィ=ストロースの『構造人類学』という3冊の本から基本的なことを僕は学びました。タムラ君もどれかは読んでいると思います。贈与の本質については、この3冊を読めばだいたい基本はわかるはずです。
贈与について僕たちが知るべき最もたいせつなことは、二つあります。
一つは、贈与が人間が営む経済活動の基本であること。
一つは、経済活動の本質は「価値あるもの」を獲得したり、退蔵したりすることではなく、「価値あるもの」を交換し合う相手との安定的な関係であること。
この二点だと思います。 

ちょっと説明しますね。これは何度も本に書いたことなので、タムラ君も読んでいると思うけれど、交換が始まったのは「沈黙交易」からだという仮説があります。実際に考古学的に証明されたわけじゃないけれど、これを始点に置くと、ものごとの説明がうまくゆくので、沈黙交易からすべてが始まったということにしておきます。
沈黙交易というのは要するに、何かがそこに置いてあるのを見つけた人が「あ、こんなところに何か置いてある。これはきっと私宛の贈り物だろう」と思ったというところから始まります。贈り物をもらったので、代わりに自分も何か手持ちの財をそこに置いておく。しばらしていくと、こちらの「お返しの品」がなくなっていて、代わりに何かまた置いてある。これを繰り返す。
自分たちのテリトリーの周縁部の他部族と接するところで沈黙交易は行われます。お互いに顔をあわせることなく、無言のうちに物と物を交換する。

ここで興味深いのは、この交易は「贈与する」という他動詞から始まるのではなく、「贈与された」という受動態から始まることです。
誰かから贈与を受けたら「お返し」をしなければならない。これはあらゆる人間集団に共通するルールです。お返しのことを人類学では「反対給付」といいます。贈与に対して反対給付をしないと「悪いこと」が起こるという信憑を持たない人間集団は存在しません。過去に存在したかも知れませんが、たぶん「悪いこと」が起きて、滅亡してしまったのでしょう。
とにかくそれが贈与です。モースによると、贈り物には「ハウ」という霊力が含まれています。その霊力は決して退蔵してはいけない。手元に置いておくと「悪いこと」が起きる。だから、とにかく「お返し」をして、霊力を「祓う」必要がある。

重要なのは、この「お返し」は必ずしも贈与してくれた当人にしなければならないわけではないということです。そもそも沈黙交易の場合は、贈与の相手がわかりません。だから、宛名をつけて返すことができない。いつもの場所に「お返し」を置いたとしても、必ず贈与主が受け取る保証はない。誰か通りがかりの人が「おや、こんなところに私宛ての贈り物が・・・」と思って持って行ってしまうかもしれない。
でも、それでいいんです。むしろそれがいいんです。そこでまたそこに一人新たな交換のパートナーが加わるわけですから。仮に、その人の反対給付をまた別の人が「おや、こんなところに・・・」と思って受納しても、交換活動のプレイヤーがさらに一人増えるだけで、交換はどんどん加速する。同じ場所に次から次へといろいろなものが置かれるようになる。そうすると、自分たちの知らない土地の、知らない特産物が贈られてきたりする。世界が広がる。だから、「お返し」は基本的には「自分の土地の特産品」じゃないといけないんです。どこにでもあるもの、誰でもその価値を知っているものじゃダメなんです。「うちにしかなく」て、それゆえ他の土地の人はその価値を知らないものが「贈り物」としても「お返し」としても理想的なんです。それは今も変わりませんよね。
一昨日仙台から帰省していた門人の子が「萩の月」を持ってきてくれました。これはうれしいですね。「芦屋のアンリ・シャルパンティエで買ってきました」と言われても、それほどうれしくない。いや、もちろんうれしいんですけれどね、美味しいから。でも、駅三つ先のところの特産品より、新幹線乗り継いで運ばれて来た「萩の月」の方が有難味がある。わかりますでしょ?

とにかく、自分たちの特産品を持ってゆくわけですけれども、それは贈与してくれた人に返礼しなくていいんです。贈与してくれた人じゃない人に返礼してもいいんです。というか、それがいいんです。
なにしろ、最初に「お、こんなところに」と思った人が自分宛ての贈り物だと思い込んだものは、誰かが棄てて行ったゴミかも知れないし、鳥や獣が咥えてきて落としたものかも知れないし、風に吹かれてどこから飛んできたものかも知れない。まったく「贈与」の意図がないものだったかも知れない。
でも、それを見て「あ、こんなところに」と思った人がいた。ですから、あらゆる贈与の創始者は「最初に贈り物をした人」ではなくて、「最初に贈り物を受け取った人」なんです。自分を被贈与者とみなした人間が贈与経済活動の起源になる。
すてきな話だと思いませんか? 自分の手持ちの財を「贈与した」人じゃなくて、誰かから「贈与された」と思った人の方が交換活動の起源なんですから。

ですから、タムラ君が「生きていること自体が贈り物だ」と思ったというのは、贈与論的にはまことに正しいリアクションです。そこから始まる。そこからしか始まらない。だって、別に誰かが「そうだ、誰かに命を贈ってやろう」と思ったから君が生まれたわけじゃなんですからね。だって、まだ贈り物の宛先であるはずの君そのものがまだ存在していないんですから。
だから、君は贈与者がいないにもかかわらず、自分の命を「贈り物」だと思った。ですから、贈与論的にはそこで君が反対給付義務を感じることになる。「もらいっぱなしじゃ悪いから、誰かにお返しをしよう」と思う。でも、もらったものの価値はよくわからない(命はプライスレスですからね)。だから、等価のものを差し出して「お返し」にすることはできません。何か自分にできる範囲の「ささやかな贈り物」を誰か偶然タムラ君のそばに通りかかった人にそっと贈る。
それでいいんです。それでは「お返し」切れない。贈り物のハウ(霊力)が残って「悪いこと」が起きるかも知れないと思ったら、さらに「お返し」活動を続ける。
贈与では等価物が交換されるということはありません。等価物が交換されたら、そこで交換活動が終わってしまうからです。経済活動の本質は「交換を継続すること」にあります。これはほんとうです。だから、人類は黎明期からずっと「どうすれば活発な交換が行われるか」について工夫を凝らしてきました。

マリノフスキーが報告している「クラ交易」がその典型です。トロブリアンド諸島の人たちは「クラ交易」というものを行います。交換されるのは赤い貝殻と白い貝殻です。これがいくつかの島の間でぐるぐる交換される。貝殻は装身具なのですが、小さすぎて成人男性は着用できません。つまりほとんど使用価値がないのです。
でも、その無価値なものを安定的に交換し続けるために、トロブリアンド諸島の人たちはさまざまな努力をします。なにしろ島と島の間での交易ですから、木を伐り出して、舟を作るところから始めないといけない。当然、海流や気象についての知識も身につけないといけない。島と島は潜在的に敵対関係にあるという「話」になっているので、隣接する島に着岸して、そこでしばらく過ごすためには、その島に安全を保障してくれる信頼できる「友人」がいなければいけない。だから、常日頃からみんな隣の島の人たちとの間に個人的な友好関係を取り結ぶように努力します。そのためには自分自身が「いい人」「信頼できる人」「約束を守る人」であるという安定的な評価を得ていることが必要です。また安全保障上は、自分のパートナーは彼の島内では「けっこう有力な人」「みんなから一目置かれている人」でなければいけない。そうじゃないと、「その人の庇護下にあれば絶対安心」ということが保証されませんからね。
ご覧の通り、クラ交易を安定的に継続するためには実にさまざまな人間的能力を開発することが要求されます。これでもうお分かりでしょうけれど、クラ交易の目的は「交換活動そのもの」ではありません。「交換活動を安定的に継続できるだけ社会的な能力を具えた成熟した人間を形成すること」です。人間を成熟させるための「仕掛け」として貝殻の交換という制度が存在する。

この二点を知るだけで、贈与の本質はご理解いただけたと思います。それは「人間を成熟させること」なんです。何かを見たときに「もしかして、これは私宛ての・・・」と思うことができる人間、それが成熟した人間です。何を見てもそれが「自分宛ての贈り物」だと思うことができないのは「子ども」です。豊かな天賦の才能を「贈られて」おきながら、それを「贈り物」だとは思わず、だから「お返し」もせず、ひたすら自己利益のためだけに使うのも「子ども」です。
そういう「子ども」たちを大人にするための仕掛けが、贈与経済なんです。
現在僕たちが営んでいる資本主義経済活動はもう「贈与経済」のなごりをほとんど留めておりません。「無価値な貝殻」である貨幣を退蔵することに必死になるだけで、交換のパートナーとの間で信頼関係を築いたり、「善い人」になるために努力するということはもうほとんどしなくなりました。だとすると、いまみんなが必死になってやっていることは、その語の正しい意味での「経済活動」ではないということになります。僕はそう思います。あれは「贈与経済」以前への退行、文明以前への退化です。残念ながらそう言うしかない。
それに気づいて欲しいんですけれどね。

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