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俳優の学び方、生き方②

前回から、風姿花伝の現代語訳を用いて俳優の学び方や生き方について私見をまじえながら書き記しています。
ジュニアランクも終わり、いよいよランカーとして世に出ていく時分の学び方、生き方とはなにか。今回はそれを見ていきましょう。

青年期(24〜25歳の頃)
この頃は一生の芸の確定する最初の時期だ。だから、稽古の本格化する境目だ。
声もすでに正常に直り、体の成長も止まり、成人としての体格が定まる頃だ。
そのために、見物人も「上手な役者が現れたぞ」といって注目するのだ。
かつては名声のあった役者などが相手であっても、新人の魅力に観客が新鮮さを感じて、競演の勝負などで若い役者が一度でも勝ってしまうと、周囲も過大に評価し、本人も上手だと思い込んでしまう。
これはどう考えても、本人の為には害悪だ。これは本当の魅力ではない。血気盛んな年齢と、観客が一時的に感じた新鮮さのもたらす魅力だ。
本当に鑑識眼のある観客は、この人気が偽物だことを見分けるであろう。 この時期こそは花が一時的にあったとしても、、初心時代というべき時期なのに、もう申楽を極めたように自分で思って、さっそく申楽について的外れの独善的見解を持ち、名人気取りの演技をするのは、嘆かわしい事だ。
たとえ、人も褒め、名人に勝つ事があっても、これは一時的な魅力によることを悟り、ますます能をしっかりとやり、名声を獲得している役者に事を細かに聞いて、稽古に精進することだ。要するに一時的な魅力を身に備わった永遠の魅力と思い込むことが、ほんとの魅力からさらに遠ざかっていくのだ。まさに、人はみな、この一時的な魅力に自分を見失って、すぐに魅力が失せてしまうのにも気づかない。
初心というのはこの頃のことをいうのだ。
一、よく工夫して考えよ。自分の芸の程度をきちんと認識していれば、その芸程度の魅力は一生消えることはない。自分の実力以上に上手いとうぬぼれると、元来身に備わった芸の魅力も失せてしまうのだ。この点にくれぐれも注意せよ。

業界に10年ほど籍を置き、仕事が途切れることもなく、プロとして認められる時分。
こと、動画の仕事や吹替の仕事ではそれをランカーといいます。
ゲームやナレーションなどではギャランティのシステムが異なるためその限りではないが俳優の仕事の質を価格という側面から保証するもの…と思ってもらえばいいでしょうか
とはいえ、この時分は若手と呼ばれるジュニアに毛が生えたようなものでもあります。価格が上がった事により仕事の量は間違いなく減るでしょうし、科白の分量や役割は大きくなります。
それまでと同じような学び方、向き合い方ではこの先生き残ることは難しいかもしれません。
年齢的にも、次第に脂の乗ってくる時分。キャリアを重ねることで、自分に自信がついていく時分。
この自信がないとこの先の道は続かないという事でもありますが、自信がつきすぎると道を誤ることもあるでしょう。
俳優は自分ひとりだけでは成り立つことのない仕事です。周りに感謝し、より一層の精進を。芸は植物を育てるという意味でも使いますが、自身の芸が一年草になるか、多年草になるのか…はたまた、大地にしっかりと根をおろし大きく育つ大樹となるのか。
よく考えてトレーニングに励みましょう。

壮年前期(34〜35歳の頃)
この頃の能が最も油の乗った時期だ。
この時期に、この風姿花伝の心得の一つ一つを会得して理解してしまい、上手になっていれば、きっと天下に認められ、名声を得ることができるであろう。
もし、この時期に天下から認められず、名声も思うように得ることが出来なければ、いかに上手に芸ができても、いまだ本当の花を知らない芸人だことを理解すべきだ。
もし、能の極みを会得することができなければ、40歳を過ぎたのち、その芸は下降線をたどることになろう。
それは後になってでてくる。この時期の未熟の証拠であろう。
芸が向上するのは三十五歳までの頃、下落するのは40歳を過ぎてからだ。
返す返すも、この頃に都での名声を獲得できなければ、芸の奥義を極めたと思ってはならない。
ここにきてなお、自重せねばならない。
この時期は過去の舞台の数々を思い出し、また、これから先の芸の演じ方をも、あらかじめ考える時期だ。
こういう時期に能の奥義に達していなければ、此の後、天下に認められることは、非常に難しかろう。

7歳からはじめた俳優修行が25年がすぎる頃それまでの努力が花開くかどうかがわかるといいます。子役から数えると30代に入った頃ですが、なるほどこの辺りの年齢までには花のひとつも咲かせておきたいのは感覚的にですが理解できます。20歳から学びをはじめた者は45歳…もう、さすがに後戻りはできない年齢ですね。
それまで培ってきた芸で世間に認められていれば、ひとまずは芸で飯が食えているといってもよいのではないでしょうか。
だが、安心することなかれ。そこまでに芸とはなにかに通じていなければ…自身の直感や感覚だけで演じているものは…その芸は下降線を描いていくことでしょう。
役者は身体が資本だとはよく言ったもので、体力の衰えはパフォーマンスに如実に現れる。滑舌の衰え、音量の衰え、長い科白が言えなくなる、集中力がなくなる…当然、エネルギーのある、魅力的な若手が台頭してくる、席を奪われる…といったことがでてきます。
また、ライフステージが変化することでここから先演じる役にも変化は訪れます。自身の将来のためにもこれから先の演じ方を考え種まきをしておく時期でしょう。今だけを見ていてはままなりません。

壮年後期(44〜45歳の頃)
この年頃から、芸のあり方はまったく変わってしまうであろう。たとえ世間に認められ、能の奥義を体得していたとしても、それにつけても、すぐれた控えの役者を傍に置いておくがよい。
芸は下がらなくとも、しかたがないことながら、次第に年齢が高くなっていくので姿の魅力も、観客のもてはやしも、失せてしまう。
まずもって、非常な美男子ならばともかく、かなりの容姿の役者であっても、素顔で演じる能は、年をとっては見られたものではない。
だから、この直面という一分野は、持ち芸から脱落するのだ。 この年頃からは、あまり手の込んだ出し物を演じるべきではない。
だいたいの所は、自分の年齢相応の能を、楽々と無理なく、骨を折らず、二番手の役者に多くの演目を譲って、自分は添え物のような立場で、控えめ控えめに出演するがよい。
たとえ、二番手の役者がいない場合でも、それならなおさら手の込んだ能はするべきではない。なにをしても、傍目からは魅力が無いからだ。
もし、この年頃まで無くならない芸の魅力があったとしたら、それこそ「真実の花」だ。
それは、五十歳近くまで芸の魅力を失わない役者ならば、四十以前に世間の名声を得ていたであろう。
たとえ、世間から認められた役者であっても、そのような上手は、ことに自分自身を知っており、さらに脇の為手を育成して、あまり身を砕いて難しい能で欠点をさらすようなことをするはずがない。
このように自分を知る心こそ、奥義に達した人の心得というものであろう。

主役を演じるような俳優であっても、時間は平等にやってきます。加齢によるフィジカルの衰えはある意味逃れられない運命と言ってもいいでしょう。
この時分になれば、それまで自身の得意としていた役割であっても気持ちであったり体力であったりと追いつかない事も出てくることもあるでしょう。
また自分だけではなく、それまで作品に関わってきたスタッフも顔並みに変化があったり、いつの間にか引退している同期がいたり…おのずと自分が歳を重ねてきたということに気づくことでしょう。
周りにも変化があるように、自身にも変化はおこります。その変化を敏感に察し、欠点を晒さないよう努力を重ねること。
この時分にも役割として残るものを世阿弥は真実の花と言っています。
一生でも続けられる仕事が俳優という仕事ではありますが、花が咲かねば消えゆくのみ。しかし倒木が新しい命を育むように、俳優から退いてもまた違う道はあるかもしれません。
花を咲かせたいならば、ひたすらトレーニングを続けること。そうでなくても、花は徐々に枯れていきます。

老年期(50歳以上)
この年頃からは、まったく何もしない以外、適当なやり方はあるまい。
「駿馬も老いては凡馬に劣る」ということわざがある。
しかしながら、本当に奥義に達した名人ならば、出来る演目はほとんど無くなって、とにかく見所は少なくなったとはいっても、芸の魅力は残るであろう。
亡き父観阿弥は、五十二歳の五月十九日に亡くなったが、その同じ月の四日に、駿河の国浅間神社の御宝前で能を奉納した。
その日の申楽はことに華やかで、見物衆の身分の上下無く、皆一同に絶賛したのであった。だいたい、その頃は演目のかなりのものは若いころの私に任せて、老人でもたやすくできる演目を少しづつ工夫して演じていたが、その魅力はさらに際立って見えたのだ。
このことは、本当に奥義を極めた「花」であったがゆえに、芸としてはできる演目も少なくなり、演技も枯れてしまってはいたが、それでも芸の花は散らずに残ったのだ。これこそが私が実際に目にした、老体の身に残った「花」の証拠なのだ。

ここで語られている世阿弥の父、観阿弥は五十二歳だがその若さであっても世阿弥は見るべきところが少なくなったといいます。
作品の主要登場人物は、青年期〜成年期までが圧倒的に多数ですし、それゆえにそのあいだの演技を求められることはとても多くなります。
近年でこそ、アフターライフ後の人生にスポットが向けられることも増えてきましたが、その絶対数は必ずしも多いとはいえません。
それは、それだけ人前で咲く機会が少ないということでもあります。
ですが、咲くことが求められた時に咲くことができなければもう咲く機会が与えられることはないでしょう。
俳優の仕事は死ぬその時まで、いつ機会に恵まれるかわかりません。そのいつくるかわからない機会に応えられるように精進していなければいけない仕事でもあります。
日々研鑽をつむ先輩の背中はとても大きく感じます。見習いたいものですね。

風姿花伝の「年来稽古条々」は以上となりますが、積み重ねる年月によって自身の演じられる役も、観客からの見られ方も変わってくということがわかるでしょう。いまがどういう時期なのか、今後5年10年と時間が経ったときにどのような道を歩むのかを考えなければなりません。

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