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カンダタ

 かすかに波の音が聞こえる。寄せては返すそのリズムに身を任せていると、しだいに眠りから覚めてくる。サラサラと細かい砂を引くような波音には聞き覚えがあった。どこの浜辺だったかしら? 記憶をたぐっているとベッドがゆっくりと動き出し、しだいに上体が起こされる。ミチヨはまぶたを開ける。目の前の壁一面に弓なりの白い砂浜が映し出されている。その映像は自分の生まれ育った街の浜辺に似ていた。だがこの部屋は見慣れた自分の部屋ではない。ここはどこかしら? 一瞬戸惑ったが、ここがケアンズのホテルであることを思い出す。昨夜、宿泊客に合わせた目覚めのプログラムがあるというので頼んでおいたのだ。おかげで心地よく目覚めることができた。
 しばらくすると海辺の映像はぼやけて消え、波の音も遠ざかる。大きな窓から明るい日差しが部屋の中に差し込むようになる。部屋の偏光ガラスが外の光を調整してカーテンの役割を果たしているのである。窓からは長く続く海岸線が目に入る。その海岸線に沿ってハイウエイが走り、色とりどりの車が往来している。その車のほとんどが自動運転で、動力となる電気エネルギーはハイウエイに埋め込まれたコイルにより供給されているはずである。青い空には白い雲が悠々と流れている。その雲の形が昔飼っていた猫のブチの姿に似ていた。だらしなく寝そべっている形に、思わず笑みがこぼれる。見知らぬ外国の景色でも、見慣れた雲を見つけるとホッとするものだ。
 七十六歳になるミチヨは海外の一人旅が初めてだった。出発前はあれこれと不安になり、家族も何かと世話を焼いてくれたが、心配には及ばなかった。昨日、空港についてから腕につけた携帯端末に行き先のホテルを伝えるだけで、ロボットポーターが荷物を預かり、タクシー乗り場まで案内してくれ、無人タクシーがホテルまでとどけてくれた。ホテルのフロントでは端末をかざすだけで、かわいい人型のロボットが部屋まで案内してくれた。携帯端末さえあれば、こんなおばあちゃんの一人旅も全く不安を感じることはなかった。便利な世の中になったものだとしみじみ思う。でも携帯端末がなかったらと、その苦労を想像するとゾッとする。娘に勧められ最新機種に買い替えてよかった。だが次々と発売される新しいアイテムのおかげで、できることが増え、便利で快適に暮らせるようになったと感じるが、身の回りの機器類は進化しても、人間は進化していない。むしろ退化してしまったのではないだろうか。なくてもよかったものが、なくてはならないものになり、便利なようで不便な世の中になったような気がする。
 時は二○六五年、一〇年前に核融合エネルギーの実用化に成功した人類は、エネルギー問題にも明るい希望を持っている。大規模な食料プラントも開発され、いずれは食糧不足も解消されるといわれている。そして昨年、長年の夢だった宇宙エレベーターも完成し、いよいよ宇宙時代の幕開けとか新しい産業革命の到来だと世間を賑わせている。なかでも月面の再開発がにわかに注目を集めている。推測の域を出なかった水の存在が、月の極地で氷の状態で発見されたのだ。それをきっかけにルナシティーと呼ばれる有人の研究都市が建設され、水や鉱物資源を利用して現地で自給できるシステムが構築されつつあるのだ。とはいえ宇宙エレベーターは建設されたばかりで、まだまだ開発途上の技術である。
 そのエレベーターの技術者として開発に携わっていた夫のタケシは、建設中の事故で亡くなってしまった。五年前のことだった。タケシが夢見ていた世界はどんな世界だったのか、残された自分がそれを見届けてあげたい。そんな思いもあって一般公募の月面ツアーに申し込んだのが半年前だ。ミチヨが選ばれたのは、タケシの勤めていたグループ会社の後押しもあった。それに加えて今後、高齢者の宇宙ツアーをビジネス化するための、プロパガンダとしての役割を期待された思惑もあったのであろう。この半年間で綿密な健康チェックと宇宙旅行に必要なトレーニングプログラムも消化してきた。途中で挫折してしまった参加者もあったと聞いた。そうした条件をクリアーして、月旅行の拠点であるケアンズに来ているのである。
 腕につけた端末が震える。指紋認証して応えると娘のリタの顔が画面に現れる。丸顔で柔らかい顔立ちはミチヨの若い頃とそっくりである。出勤前なのだろう、スーツを着てスキのない化粧をしている。
「おかあさん調子はどう?」
「ありがとう。リタが予約してくれたホテルは快適よ。でもベッドが柔らかすぎて、 腰がちょっと痛いけどね」
「あははー、宇宙エレベーターは結構、Gがかかるそうだから気をつけてね」
「そのためにトレーニングも積んできたから大丈夫よ」
「私も一緒に行きたかったなー」
「あなた達はまだ若いんだから、これからいくらでもチャンスはあるわよ。あと十年もすれば、もっと行きやすくなるわ」
「あっ、私もう行かなくっちゃ、じゃあね、月でおとうさんに会えるといいね」
 端末のリタは手を振りながら消えていった。やさしい子に育ってくれたと思う。リタたち家族は東京の郊外の借家住まいである。ミチヨが月に行く費用で、都心は無理にしても郊外であればリタたちの家を建てることができたかもしれない。そんなことは一言も言わずに、月に行くことを賛成してくれたのだ。
 しばらくするとチャイムが鳴った。
「カワサキ様、朝食をお持ちしました」
 甲高い電子音だ。
「はいどうぞ」
 ミチヨはベッドから降りることなく返事をする。朝食を運んできたのは昨日、部屋まで案内してくれた人型ロボットだった。ちょうど小学生くらいの背丈でかわいらしい。
「あらご苦労さま。また、会えたわね。名前はなんていうの?」
「私はハルと呼ばれています」
「まあ、可愛い名前ね。じゃあハルちゃんって呼んでいいかしら?」
「そう呼んでいただけると、私もうれしいです。」
「ハルちゃんが勧めてくれた、モーニングプログラムはとても良かったわよ。おかげでスッキリ目覚めることができたわ」
「ありがとうございます。気に入っていただいて幸いです」
 ハルはそう言いながら、ベッドの上にテーブルを出して朝食を準備していく。朝食は簡単なサンドイッチだった。飲み物はコーヒーとミックスジュースを選んだ。
「そういえば、手紙を出すのは、ハルちゃんにお願いしていいのかしら?」
「て・が・みですね? しばらくお待ち下さい。」
 ハルは丸い黒目をひとり廻りさせてから
「大丈夫です。私にお任せください」
 紙の手紙など今どき書く人は少ない。きっと外部の記憶装置にアクセスして調べたのだろう。
「では、カワサキ様 これで失礼いたします。また御用がありましたら何なりとお呼びください」
 十時近くまで、ホテルで過ごして、その間に手紙を書いた。もしかしたら地球に戻ってこれないかもしれない。そう思いながら、家族や友人、そして出すことのない夫あての手紙を書いた。またハルを呼んで手紙を託し、チェックアウトをした。ハルは手を振って見送ってくれた。
 自動運転によるタクシーで市内を抜け、郊外にある宇宙空港に到着する。ここは宇宙旅行専用の空港だ。空港というよりは巨大なスタジアムといった外見である。中には宿泊施設やギャンブルなどアミューズメント施設もあると聞く。宇宙エレベーターの完成以来、にわかに宇宙旅行のツアーが増えたためか空港は賑わっていた。月面まで行くツアーの他にも、静止軌道上で無重力を体験するツアーや火星周遊ツアーなどもあった。
 集合場所のカウンターは端末の案内ですぐに分かった。ツアーの参加者は二十人程度だった。日本人はミチヨの他には一組だけで、ミチヨと同年代の川田という男性とその娘のチカだけだった。大学の研究員だというチカは気さくな性格ですぐに親しくなれた。ツアー中に日本語が話せるのはありがたい存在だった。添乗員は同行せずに、その代わりにツアー専用の端末がサポートをするという。
 スタッフのサポートで自身の携帯端末でID確認をし、ツアー専用の端末と同期が行われる。ここでもやはり携帯端末は必須条件である。世の中のシステムが携帯端末を持っていることが前提で構築されている。しかし便利な世の中の恩恵を享受できるのは一部の人間だけだ。世界の格差は拡大し、端末を所有できる者とそうでない者に分けられる。また国の管理を拒絶するものは、端末も没収されその恩恵に預かることができない。
 ツアー専用の端末はリング状になっていてツアー中、首にはめるよう指示がある。隣のチカと顔を見合わせて、「なんだかペットみたいね」と笑い合いながら、リングを首につける。確かにそうかも知れない。ツアーの間、この装置で身体の状態や誰と何を話したかなどを管理され、行動を指示されるのだ。
 早速、ネックリング端末から電子音声で指示がある。最終の健康チェックのためセキュリティーゲートに進めとのことである。骨伝導で音が伝わるのだろうか、まるでテレパシーのようで戸惑う。セキュリティーゲートは二〇〇mほどのトンネルで、椅子に座った状態でトンネルを抜け、最終の健康診断と手荷物のセキュリティーチェックが行われる。宇宙エレベーターはテロや事故防止のため搭乗前の検査は厳しい。ツアー同行者にもセキュリティーチェックで所持品を没収される者もいた。核融合の実用化によりエネルギー問題は解決されつつあるが、良いことばかりではない。一世代前には石油利権のために結束したかに見えた中東諸国だったが、元々は宗教や民族などが原因で争っていた地域だ。エネルギーの転換とともに石油が利益を生まなくなってくると、政治的に欧米諸国に追従する国も現れ、反目しあうようになり、結果として今では分裂し、各地で散発的な戦闘が続いている。先進国が共同で宇宙エレベーターを開発し、月にルナシティーという都市を築きつつあるという今日でさえ、前時代的な戦争をしている国々もある。それは悲しいことであるが現実でもある。宇宙エレベーターはそれらの国にとって格好のターゲットとされているのである。
 宇宙エレベーターはロケットよりも安全に、かつ低コストで宇宙に物資を送ることができる技術として開発が進められてきた。二十一世紀初頭は一kgの物資を月に運ぶまでに一億円程度かかるといわれていた輸送コストも、この宇宙エレベーターの完成により二十万円程度までに低減されると試算されている。その構造は静止軌道上(高度約三六〇〇○㎞)のスペースゲートから、上下にケーブルを延ばしていって、一端は地上のアースポートに置かれ、もう片方のカウンターウェイトを宇宙空間に設置して、遠心力と地球の引力とのバランスを取っているのである。ケーブルの全長は約十万㎞にも及び、それは月までの距離の三分の一にあたる。アースポートとスペースゲートを往復し、人や物資を運ぶ「カゴ」(「カンダタ」と呼ばれている)はリニアモーターで駆動し、スペースゲートに建設された太陽光パネルにより発電される電気エネルギーでまかなわれている。月へ行くためにはこの宇宙空港から海底列車に乗り、太平洋上のメガフロートであるアースポートまで移動しなければならない。アースポートからは宇宙エレベーターの「カンダタ」に乗り、静止軌道のスペースゲートまで登り、そこでさらに宇宙船に乗り換え、ようやく月の南極に建設されたルナシティーにいたる旅なのだ。片道だけでも二日を要する行程である。
 ミチヨも海底トンネルを列車で移動し、ようやく宇宙エレベーターの地上側の拠点であるアースポートに到着した。「カンダタ」は十程度のたまご型のカプセルが並べられた小さな劇場のようだった。ミチヨはネックリングの指示でカプセルの座席に潜り込む。たまごの殻にすっぽりと包まれるようで心地よい。出発を待つ間は映画か演劇を見るようなざわめきがあったが、ネックリングから出発のアナウンスがあり、自動的に体が固定されると室内は静まった。音もなく加速が始まり次第にG(重力加速度)がかかるようになる。それとともに、座席が上向きに回転する。全身にGが分散されるように工夫されているが、座席に押し付けられるような圧力が結構かかる。ジェットコースターの加速時の感覚と似ている。事前のトレーニングのとおり丹田のあたりにぐっと力をいれてそれに耐える。Gは最大で一G程度で加速は三〇分程度続くと、ネックリングからの音が遠くに聞こえる。きっと今、ミチヨの体重を測ることができたら八十㎏くらいになっていることだろう。
 天井のスクリーンには、後にした地上の風景が映し出されている。出発直後は青い海に浮かぶアースポートしか見えなかったが、周囲の島々も見え始め、ケアンズの町並みが、雲を突き抜けるとオーストラリア大陸の東海岸が見えるようになる。高度が上がるにつれて空の青色が濃くなっていくのがわかる。出発から五分ほどでネックリングは大気圏を抜け出したことを伝えている。ミチヨは目を閉じてGに耐えた。三〇分の加速時間からようやく開放された。カンダタの速度は時速八〇〇〇キロメールに達している。それから三時間ほどは座席から離れることができたが、減速のため再び座席に戻り、ようやく静止軌道上のスペースゲートに到着した。
 高度三六〇〇〇㎞のスペースゲートは完全な無重力である。貸与されたエアーカート(空中を飛ぶ補助推進装置)を頼りに移動する。途中で展望デッキから窓いっぱいに広がる地球を眺めることができた。漆黒の闇の中に浮かぶ夜の地球は濃紺のリングをまとい、都市の灯りが点在しているのが見える。明るいかたまりは栄えている先進国の都市である。その都市を血管のような光の筋が結ぶ。目を凝らすと小さな日本列島の輪郭もはっきりと分かった。きっと地上では雷が発生しているのであろう。北米大陸の西海岸では青白い光が点滅している。時刻は二十二時である。後数時間すれば地球から太陽が顔を出すのがみえるはずだ。だがミチヨたちはそれを見ることができない。慌ただしく宇宙船に乗り換えて、いよいよ月に向かうのだ。

   (中略)

「うさぎの宿」(月のホテル)に滞在して三日目の朝だ。ケアンズのホテルのようなモーニングプログラムはなかったが、目覚めは快適だった。月の重力は地球の六分の一のため体への負担も軽くなる。毎朝、悩まされていた腰の痛みも感じることがなく、体が若返った気がする。鏡を見るとシワもなくなって、一時的なものだとわかっていながらも、年甲斐もなくニンマリしてしまう。ウサギの宿は地球のホテルと同じように、空調が完備され、貴重だといわれている水もふんだんに使える。窓がなく若干の閉塞感を覚える以外は快適そのものだった。このまま月で老後を過ごすことができれば……といった考えも頭によぎり、慌てて首を振る。爽やかな気分の中にシミのように残っているものがある。昨夜、リック(現地ガイド)が話してくれたことだった。
 現地スッタフたちはカプセルホテルのようなボックス(月ではみな棺桶と呼んでいるそうである)で寝泊まりしていて、個人に許される空間はわずかである。シャワーは水など使えず、エアーシャワーのみ、食事はチューブの宇宙食で我慢させられる。昨夜ミチヨたちに供された豪華な食事は、彼らの一ヶ月分の収入に値すること。ショッピング街では、彼らの買えるものはひとつもないこと。どの話も富裕層のために作られた虚構の世界を支える若者たちの現実であった。宇宙を夢見て地球を飛び出した若者たちの現状を思い知らされた。今まで見て見ぬ振りをしてきた世界を垣間見た思いがした。その話を思い出し、今朝はシャワーを浴びる気になれなかった。
 ミチヨは気分転換に展望室に向かった。展望室には十名程度の人がいたがツアーの人はいなかった。リックもいなかった。目の前に青い地球が地平線いや月平線近くの同じ位置にポッカリと顔を出している。漆黒の宇宙空間に浮かぶ地球は何度見ても美しい。夫のタケシもこれが見たかったのだろうと改めて思う。月で見る地球は常に同じ位置にある。地球で見る月のように地平線から登り、沈んだりはしない。だが満ち欠けするし、地球の天気も一様ではないので同じ表情はない。月に到着した日は「満地球」が見られたが、今日の地球は右側が少し欠け始めている。反対側にはやはり低い位置に太陽が真っ白に輝いている。月で見る太陽は白夜のように地平線すれすれの低い軌道を描きながら、半月かけて登りそして沈む。まるで吸い込まれるような暗黒の闇を背景にした太陽は、なにか不気味な存在に感じ、ミチヨにはそれが生命の源とはとても思えなかった。その地球と太陽を結ぶように天の川がかかっている。ドーム全体に瞬くことのない星が一面に広がっている。なんだか無数の星々に見つめられているのを感じ、そのまま宇宙空間に吸い込まれるような感覚にとらわれる。
「川崎様、そろそろ集合時間です」
 ネックリングの声に我に返り、あわてて集合場所に向かう。集合場所では、もうすでにツアーのメンバーは集まっていた。リックは爽やかな笑顔をミチヨに向ける。その笑顔からは昨日の暗い話の片鱗も感じさせない。
早速ツアー一行は実験棟に移動する。ルナシティーのある月の局地では太陽の光がほとんど当たらないため外気温はマイナス一七〇℃にもなる。その低温下で超伝導技術と月で採取したヘリウム3を利用して核融合による発電がおこなわれている。その電力によりルナシティーの必要なエネルギーをすべて賄っているのである。局地で発見された氷を溶かし飲料水や食料プラントに必要な水を供給する。また、クレーターの底では超伝導量子コンピューターが複雑な計算を請け負っている。また月面には大気がなく、振動の発生源も地球と比べて少ないため、重力波天文台も月面に設置されている。そうした施設を順々に見学していく。育成プラントでは活魚の水槽まであるのは驚きだった。さながら水族館である。
 泳いでいるマグロを見ながら、参加者の誰かが「昨日食べた魚もここで育ったものなのかしら?」という言葉にリックは苦笑いしている。たぶんこの水槽は見学者用のパフォーマンスなのであろう。昨日食べたお刺身は明らかに合成魚肉だった。植物由来のたんぱく質に糖類やアミノ酸を加えて、マグロ独特の旨味・酸味や触感までも見事に再現されていた。その技術は素晴らしいと思うが、月まで来てそんなものを食べる必要があるのかしらと思う。実験棟では極小ブラックホールの研究をしている施設もあった。難しいことはわからなかったが、地球でいらないものをなんでも捨てることができる研究をしているという。「核廃棄物や人間でさえも……」と言う青白い顔をした男性研究員の唇が、妙に赤いのが不気味に見えた。
 午後からは月面ゴルフであった。ゴルフコースとはいっても未だ整備途中で、ルナシティーに隣接したエリアに二ホールしかできていない。月まで来てゴルフをしたいなんて酔狂なと、ミチヨは思う。ミチヨは参加するつもりはなかった。ただ宇宙空間を体験したかっただけだ。まずはクリーンブースでバイオスーツを装着しなければならない。人類が初めて月に足跡を残した時代は一二〇キロあったといわれる宇宙服が、現代は形状記憶合金でできたバイオスーツが開発され、一〇キロ程度の生命維持装置を背負うだけで、宇宙空間の真空状態や放射線から身体を保護したり、体温を維持してくれる。それでも一人で装着することは難しい。二人一組になり装着する。ペアのいないミチヨはリックに手伝ってもらう。スーツを着て電流を流すとスーツが体にフィットする。ぽっこり出たお腹が目立ち少し不格好であるが、伸縮性があるので体の動きを妨げることはない。ヘルメットをかぶりグローヴとブーツを装着して完了である。ヘルメット内のみ酸素で満たされ、呼吸が確保されるのである。スタッフによるチェックの後エアロックに移動して、徐々に減圧される。途中何度もネックリングから確認があるが異常はない。エアロックの扉が開かれ、いよいよ宇宙空間に踏み出す。
 ルナシティーの周囲は低い太陽に照らされ月面は眩しいほどに白く輝いている。ルナシティーはシャクルトンクレーターの周囲に点在する洞窟の一つを利用した施設である。地下の空間に広がっているため、月面に見えるのは展望ドームと宇宙船の発着用のポートくらいだ。発着ポートに設置された管制塔らしき構造物が月面に長い影を落としている。少し離れた場所に建設中の施設もあり作業用の重機が忙しく動いているのが見える。それ以外は動くものは一つもない。荒涼とした白い砂漠とゴツゴツした岩石のような山が連なっているだけである。そして山々が続く先に宇宙空間との境界線をくっきりと作っている。その稜線の上に青い地球がポッカリと浮かんでいる。今朝見た地球と見える位置は同じだが、表情はまた変わっている。刷毛で塗ったような白い雲が点在している。雲間から大陸も見えるがそれがどこだかミチヨにはわからない。表情を変えていく地球は生きていると感じる。月の表面が明るすぎるのか星は全く見えない。漆黒の闇に浮かぶのは青い地球と白く眩しい太陽だけである。
 ゴルフツアーに参加するメンバーたちはいそいそと月面カートに乗り込んでいる。ミチヨは一番最後に月面に踏み出した。歩き始めると硬いトランポリンの上を歩いているような感覚である。ふわふわして落ち着かない。振り返ると月面に自分の足跡がしっかり残っている。足元のレゴリス(月の砂)をすくいあげるとキラキラと輝きながら指の間からこぼれていく。ふと気づくとまわりに誰もいなかった。自分ひとりだけが取り残されているような感覚になった。急に宇宙の闇に自分が飲み込まれるような気がして怖くなった。
「カワサキさん、あまり遠くへは行かないようにしてくださいね」
ネックリングから声がする。振り返るとリックがいた。
「ありがとう、ご親に……」
 と笑ってみせる。
「せっかくスーツを着たのですから、散歩コースでも案内しましょうか?」
「大丈夫よ、もしかしたら私がなにかするんじゃないかと心配になったのかしら」
「そんなことはないですが……」
 ミチヨはおもむろに持参したバックからカプセルを取り出す。リックはミチヨの行動を訝しそうに見ている。
「大丈夫よ、ツアーコンダクターには許可はとってあるの」
 ミチヨはそう言って月面にひざまずき、カプセルの中身を取り出し、月の砂に埋めた。そして地球に向かって手を合わせる。リックは無言のままミチヨの仕草を見ている。
「これは主人の遺骨なの」
「月に行くのが夢で、それしか考えていなかったような大馬鹿者だったけど、途中で勝手に死んじゃったから……。タケシさん、これで満足かしら?」
リックはやはり無言でミチヨの姿を見つめていた。

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