犠牲者の臨床|尾久守侑

晶文社noteで始まったコーナー「マイ・スクラップブック」。記念すべき第1回は、精神科医で詩人の尾久守侑(おぎゅう・かみゆ)さんに寄稿していただきました。
なぜ病院では、いつも待たされるの? そんな疑問を入り口に、医師が診察のときにどんなことを考えたり感じたりしているのか、その頭のなかをたどる臨床エッセイです。

 病院を受診すると予約をしていても大抵ものすごく待つ。予約時間は11時ですと言われていても実際に呼び出されるのは12時30分とかで、じゃあ予約時間の意味ないじゃんかと苛々するけれども、診察室を出たり入ったりしているお医者さんが忙しそうにしているのを見ると、まあ仕方ない待つかと思ってやむなく溜飲を下げる。時々いつまで待たせるんだ!と看護師さんを罵倒しているおじいさんとかがいて、あんな風に怒れたらすっきりするのかなと思うけど、でもスタッフに大人の対応をとられて後々気まずくなっているおじいさんを見ると、やっぱり待つしかないのかなという気がしてくる。

 などという学生の時に感じていた疑問は、実際に自分が医者になって、外来で患者さんを1時間以上待たせるようになってようやく記憶に蘇る。なぜこんなに待たせてしまうのか、ようやく分かったその答えは単純で、患者さんの数が多いからである。

 単に多いというだけではないのが難しい話で、前回の診察から今回までの生活を平穏無事に過ごした患者さんがたくさんいても、そこまで時間はかからない。なぜならばその人たちは今の治療で平穏無事に暮らせているからであって、診察においても「同じ薬をください」と言って終わることがほとんどだからである。

 時間がかかるのは前回の診察から今回の間に何事かが起きた人で、これは精神科でも内科でも同じなのだが、例えば新たに関節が痛くなったとか、血便がでるようになったとか、昨日自殺しようとして樹海に行ったけど思いとどまって戻ってきました、などといったイベントが語られると、え、本当ですか、という気に医師としてはなるため、検査を追加したり、入院を検討したり、家族に話を聞いたり、といったプラスアルファの診療時間が必要になってくる。1日の外来が40人いたとすると、こういった予想通りにいかないひとが少なくとも3人くらいはいるので、この人たちに時間が割かれ、他の人の診療時間は畢竟短くなることになる。

 と話すと、こういう人がいることも見越して時間設計をすべきだろうという尤もな意見がでてくるが、そもそも医者の人数に対して患者の数が多すぎるのか知らないが、どこの病院にいっても誰が外来をやっても大抵時間いっぱいぎちぎちに予約が詰まっている。そうなると現代の日本の医療の問題点、などと政府に意見を提言したらいいという話なのかもしれないが、現場の人間としては、とりあえず患者さんがたくさんいるので診ないといけない。

 数人時間が大幅にかかる患者さんがいるとき、その他の人の診療時間は短くなる。これは致し方ないことだが、その他の人の診療時間が均等に短くなるかといえばそういうことはなく、短くしても大丈夫だろうとみなされた人の診察時間が特に短くなり、あまり短くしない方が良さそうだとみなされた人の診察時間は普段とあまり変わらない。

 つまり、言い方があれかもしれないが、ある日の外来には必ず時間を短くされてしまう「犠牲者」が発生する。これは、そういうことをしてはいけない、均等に平等に診察をすべきである、という一般的な規範の感覚からするととんでもないような話だが、全員の診察に長時間をかけた結果最後の人が4時間半待った、などといった事態を引き起こさないために、おそらく医師誰もがこのような時間調整を無意識的にしている。

 この「今日の時間のかかる患者さん」「今日の犠牲者」という視点をもって診療をしていると、興味深いことに、一度も時間のかかったことがない人で、毎回犠牲者になる人、というのが出てくることに気が付く。もちろん対象とする疾患がそれぞれ違うということはあるのだが、同じ疾患や病態、同じ治療介入をしているのに、ある人は「犠牲者」になりやすいという現象がある。

 私は診察のあとに毎回先輩医師と振り返りといって、今日診察した患者さんのカルテを一人一人開けて、どのような診察をしたか振り返っていくという作業を日常的にしているが、この作業をするようになって、この「犠牲者」という存在に気がついた。

「もっと診察してください!」と言語的・非言語的に言っている人は通常「犠牲者」にはならない。それが医学的にそんなに長く診察しなくていいと判断されうる人であっても、もっと診察してほしい、という思いは医師にキャッチされるので、結果的にそんなに時間はかけないにしても「犠牲者」にはならない。あまり診察に時間をかけたがってなさそうと思われる態度をとっている人で、かつ、こちらも時間をかけなくていいという感覚を持つ人が通常は「犠牲者」になるからである。

 しかし、よくよくこの「犠牲者」に注目して診察していくと、実は重要な症状を語っていなかったり、色々相談したいことが実はあるのに相談していなかったりということが後々わかることがある。「犠牲者」としての外来を重ねているうちに、ある日急性心筋梗塞で救急搬送されてきて、最近ずっと採血をしていなかったが数ヶ月の間に糖尿病と脂質異常症と高血圧が顕著に悪化していた、ということが分かったり、ある日自殺企図をして救急搬送されてきて、実は家庭の問題が危機に瀕していたことが分かる、などということはしばしばあることである。

 こういったとき、しまった、ちゃんと採血しているか確認すればよかった、などと医師は自分の「管理」について反省することが多いのだが、私はどうしてこの人が毎回「犠牲者」に選ばれていたか、ということを考えることの方が重要だと思う。

 「犠牲者」の選定は医者が無意識的に行っているわけだが、ではどうして「犠牲者」にしていいと判断しているかと考えると、患者さんが「本当に」平気そうにしている雰囲気を医師のセンサーがキャッチしているからだと言える。平気そうにしているだけで、実は困り事があるんだよな、と認識している患者さんの雰囲気は、よく訓練された臨床医であれば通常キャッチできる違和感として感じることができるため、かえって「犠牲者」になりづらい。「大丈夫ですか? なんかあるんじゃないですか?」と尋ねたくなる方向性に頭が向かうのである。

 つまり、変な話だが「犠牲者」になる患者さんは自ら無意識的に「犠牲者」になろうとしているようなところがあって、この現象というのは患者さんと医師の無意識的な相互作用によって行われているということになる。

 「犠牲者」に毎度なる人というのは、なるべく目立たないように生きる、という所作が身についていることが多く、診察現場で起きるこの現象は、彼ら彼女らの人生において繰り返し起きていることなのだと思う。

 例えば、兄が虐待されている家で育ち、自分は虐待されないように、なるべく兄弟のなかで目立たないようにすることが必要だったという子どもや、母が病弱であったり精神的に脆弱であったりして、何かを要求すると母の具合を悪くしてしまうという体験を繰り返しした結果、なるべく「平気そう」に振る舞うという仕草が身についた子どもの成長した姿のなかに、「犠牲者」的な人が含まれているのではないかなと連想するし、実際そういう人はいる。

 その子どもの頃の努力はまさに生き延びるための適応として身につけてきた命懸けの振る舞いであって、よっぽど意識しない限りは気がつくことができないレベルに仕上がっていることがほとんどである。

 診察というものはついつい目立つ人に注意が向いてしまうのだが、私はいつも平気そうな人のなかに隠れている「犠牲者」の、本人すら気づいていない声に耳を澄ませたいと思っているし、まあもちろんそれが「触れてくれるな」という類の声であることもあるわけだが、触れないなら触れないで、その声まで認識したうえで決めたいと思っている。

 とはいえ今日もまた同じ患者さんが「犠牲者」になっていて、そろそろちゃんとこの患者さんのことを考えないとな、と思うのだけれども、どうしてもまあ次でいいか、という気になってしまって、こういう気になるのも多分無意識的な相互作用なのだろうと思うけれども次の大変な患者さんのことに集中しなければいけない時間が直ちにやってきて、私は「犠牲者」が次の外来にやってくる日までこのことをすっかり忘れてしまう。

尾久守侑(おぎゅう・かみゆ)
精神科医、詩人。1989年、東京都生まれ。横浜市立大学医学部卒業後、国立国際医療研究センター病院、慶應義塾大学医学部精神・神経科学教室を経て、下総精神医療センター、南多摩病院、成城町診療所などに勤務。
著書に、『器質か心因か』、『サイカイアトリー・コンプレックス』、『ASAPさみしくないよ』、『悪意Q47』など。第9回エルスール財団新人賞受賞。新しい単著『偽者論』が金原出版より9月初頭に発売予定。